私の青少年教育リカレント −社会教育の魅力につねに立ち返る− 若者文化研究所(http://mito3.jp/) 西村美東士 日本青年館『社会教育』(以下「本誌」と呼ぶ)2024年6月号 参照HP:西村美東士「体験的リカレント論」本誌2019年6月号(http://mito3.jp/seika/3920.pdf) 1 ワーカーをやりたい  私は、大学の社会教育実習で、農業青年と接する社会教育主事の家に民泊させていただき、主事の仕事の楽しさを体感した。これを都市部で行ないたいと思い、専門職採用に挑戦したが落ちてしまい、労働省の行なう今はなき勤労青少年指導者大学講座1期生として就職浪人一年を過ごした。受講生15人、国家公務員初任給支給(ただし1年間限り)という恵まれた環境で、予想以上に大きな収穫を得た。何よりもユースワークを目指す仲間たち(就職浪人生)との交流は楽しく、意義深いものだった。そのうちの一人が、グループ面接で、「勤労青少年ホームの採用は厳しいものがある」という面接官の言葉に、「ラーメンの屋台を引っ張ってもユースワークはできる」と答えた若者に、「そうだ、ワーカーは何をやってもできる」と内心強く励まされた。  2年目も、本命の23区の社会教育主事採用は落ちたが、幸い東京都社会教育主事に合格し、青年の家に勤務することができた。そこでは、前年合格した若手を含め5人で「ひよこ会」を結成し、私の独身寮の部屋で熱心に「勉強会」を行なった。当時は、教員から異動になったベテランの社会教育主事が、宿直業務が過酷だとして「恨み辛み」を述べることも多かったが、若手のわれわれは、事業のあるときの宿直を含め(宿泊を伴うからこそ)若者と深く交流することができた。  その後、青年の家の縮小・廃止の流れの中で、若手も本庁に異動になってしまった。異動になった若手のなかには、夢破れて退職してしまった者もいる。われわれは、ワーカーをやりたかったのだ。残念なことだ。ここでは、社会教育における若者対象の指導者を「ワーカー」ととらえて、そのリカレントについて述べてみたい。 リカレント教育については・・・ 西村「リカレント教育」弘文堂『福祉社会事典』1999年(http://mito3.jp/seika/1800.pdf) 広域施設ワーカーの課題については・・・ 西村「青年の家についてみんなで考えてみよう」東京都青年団体連絡協議会『大会資料』1977年(http://mito3.jp/seika/0010.pdf) 2 社会教育特有の魅力とは  戦後、社会教育法は市町村中心、施設第一主義を謳った。ここに社会教育の魅力があり、ワーカーとしての活躍の場がある。そして寺中構想(『公民館の建設』1946年)は、「赤黒く焼けただれた一面の焦土」の中で、公民館を、民主的社会教育機関、村の茶の間、親睦交友を深める施設、産業振興の原動力、民主主義の訓練場、文化交流の場、郷土振興の機関、そして青年養成の場とした。このような社会教育の魅力は、ワーカーを志す者にとって未だ色あせることはない。 戦後青少年教育については・・・ 西村「青少年教育論教材」(http://mito3.jp/seisyou) 寺中構想については・・・ 西村「癒しの公民館一新しき伝統」本誌1999年3月(http://mito3.jp/seika/3920.pdf) 青年教育のネオトラについては 西村「狛プーはどうしてネオ・トラなのか」本誌1994年(http://mito3.jp/seika/1080.pdf) 今日の発展形の課題については・・・ 西村「全国自治体のユニークな事業−国立市公民館視察報告」聖徳大学『松戸市社会教育作成におけるスモールコレクション』2015年(http://mito3.jp/seika/3350.txt)  この市民主体による総合的機能は、今日、むしろ一般行政全体の重要課題ともなりつつある。そして、個人化の進む今日、個人化を敵視するのではなく、ワーカーの個別最適化の支援によって、自治協働の拠点とすることが求められている。多様化のなか、娯楽も含めた総合的取り組みによってまちに「共有」(単なる「共存」ではなく)を生み出し、そこから、各課題に向けて散らばっていく、ときにはまちの総合的課題に向けて交流し、共有を深めるということが求められる。  それはさしずめ駅のプラットフォームのようなものだ(第五期豊島区生涯学習推進協議会「『つどう、つながる、つなげる、つくりだす』豊島区生涯学習センター機能の実現に向けての意見書」2016年 http://mito3.jp/toshima_ikensyo.pdf)。人々は、公民館を拠点として「人づくり」ならぬ「われづくり」をして、その後多方面に散らばって参画していく。ワーカーは駅に配置された職員であり、人々の参画に向けた「われづくり」を応援する。個人化のなか、このようにして、ワーカーとして個の深みと接し、個人を後押ししながら、公共的課題を追求することの意義は、施設提供と並んで大きい。 【補注】まちづくりに向けた青年団と行政とのコラボについて、私は、「個人の多様性を認める数少ない場」としての青年団の意義と今日の可能性を主張した(西村「違いを認め育む」「日本青年団新聞」2021年 http://mito3.jp/seinendan_collabo2021.pdf)。 3 本物との水平な出会いを提供する  ある県の青少年指導員の大会で、カウンセラーの司会者が壇上に並んだ20人程度の高校生に「フロアーの人たちは、敵に見えるか、味方に見えるか」と問うたとき、全員が「敵」の札を挙げたことがある。  なぜ善意の青少年指導者が敵に見えてしまうのか。多くの指導員は地域で「権威がある」人たちである。しかし、皮肉なことだが、その「権威」が、「弱者としての若者」(宮本みち子『若者が社会的弱者に転落する』2002年 )にとってはマイナスになる。だが、これも、地域で個人として若者と接しているときには、多くの青少年指導員が若者に「味方」だと思われているに違いないと私は感じている。そのときの「権威」とは「制度的権威」によるものではなく、若者が自発的に支持したくなる「人格的権威」によるものであろう。このように、ワーカーは、制度的上下関係ではなく、水平な関係のなかで、個人と出会うことになる。 【補注】 私は、学習集団を支援する施策と方法について、これまでのネットワーク重視から同心円集団重視への転換を説いた。これは、ネットワーク重視における個人の自発性尊重を継承しつつも、「個人の自発的支持に基づく人格的権威」に依拠するものである(西村「学習集団形成のプロセスと支援」国立教育政策研究所社会教育実践研究センター「社会教育主事講習資料」2010年 http://mito3.jp/20100201syuudan.pdf)。  次に大切なことは、「本物との出会い」を提供することである。狛江市青年教室で「紙芝居講座」を行なったとき、戦後からまちなかで紙芝居をやっている「本物」の講師を依頼した。だが、若者が順番にアドリブを入れながら紙芝居を楽しんでいるのに、年の離れた講師は番が来るまで夢中で自分の発表を準備しているのだ。これに、若者たちはしびれてしまった。紙芝居のテクニックなどより、このような「没入している生き様」のモデルを若者は求めている(西村「癒しのサンマと若き旅人たち−地域若者文化のはぐくみ方」青少年問題研究会(総務庁青少年対策本部編集協力)『青少年問題』 http://mito3.jp/seika/1660.pdf)。  国立社会教育研修所では、「ほんものの文化にふれる、ゼロと一の違い」を重視して、受講者の社会教育職員に「特別文化講座」を提供していた(西村「感性にせまる、核心にせまる」本誌1985年6月 http://mito3.jp/seika/0240.pdf)。二期会の公演をお願いしたとき、講師室で指導者がある学校公演の様子を話してくれた。体育館で幕が開く前に、先生方が生徒のあいだを回って「おしゃべりするな」と怒鳴っていると言うのだ。その指導者は、おしゃべりしていても幕が開いて公演が始まれば静かになるように仕組んであるのに、と残念がっていた。本物の文化とはそういうものであろう。「指導」されて出会うのではなく、本物が感性に迫って出会うのである。そこには上下関係など必要ない。  ちなみに、このことは、大学教員にも通ずる。大学教員には「研究も教育も」求められる。「どちらか一方だけ素晴らしい」という人はあまりいない。「本物」の大学教員は「研究も教育も本物」である。それは、学生に「知的水平空間」の魅力を伝えることにもなる(西村書評「早田幸政『大学の質保証とは何か』」日本教育新聞社『週刊教育資料』2016年 http://mito3.jp/seika/3480.html)。 4 社会教育リカレント  ある落語家が、大学で講師をやっていて、「毎年、新しい若者が来るのでありがたい」と言っていた。ワーカーも「新しい若者」と出会うことができる。それは、「新しい時代」との出会いであり、その意味から、リカレント「教育」ではなく、出会いのリカレントと言うことができよう(桂文珍「『非常識』講師が学んだ現代若者考」産経ニュース https://www.sankei.com/article/20220216-7TNV5RQR3JMWFATNBPT35U7RVM/?outputType=theme_portrait)。  大学でも、社会教育でも、多くの若者は3、4年で巣立っていく。われわれは、そのあいだに生き方を模索する若者と出会うことになる(西村「チ・イ・キなんかが若者の居場所になるの?」神奈川県青少年総合研修センター『あすへの力』1995年 http://mito3.jp/seika/1210.pdf)。「人からどう見られているかを考えてもわからない。それよりも自分をどのように見せるかが大事」、「エネルギーは使うけど、人生を寄り道して多くのものと出会いたい」、「正しいことは、人の数だけあると認識しつつも、相手視点での『正しいこと』や『考え』を考えていなかった。相手の考えを否定せず、こちらの気持ちを伝える。それ以上を望むと、たとえ手は出さなくても、程度によっては『言葉の暴力』、『気持ちの暴力』になる。相手にも心があることを自覚することが大事」。これらは、彼らが私に語った宝のような言葉であり、私のリカレントを形成する一端となっている(西村「チエちゃんの話−自己決定の人生と生涯学習」徳島学遊塾『ぶどうの木』1998年 http://mito3.jp/seika/1640.pdf)。  ワーカーにもOJTとOffJTがある。しかし、どちらも「講師のいない学習」が中心である。「ひよこ会」もそうだった。これらは、言い換えればワーカー同士が自分の「若者との出会いのリカレント」を披瀝し、再解釈する場である。ワーカーは、研修というよりも、実践を通した「研究」で、独自の仮説を検証し、これをピアレビューすることが大切だと考える。 今後のOJTのあり方については・・・ 西村書評「川島高之『いつまでも会社があると思うなよ!』PHP研究所、2015年」 http://mito3.jp/syohyou/html/3460.html  その意味からも、全国規模で青少年教育の実践報告が収集、掲載されていた「青少年問題文献集」が2002年度までで中止になったことは残念だ。青少年の社会参画が叫ばれる今日こそ、このような実践の蓄積と交流が必要と考える(西村『わが国の青少年教育及び青少年問題』2020年 https://www.ihcs.otsuma.ac.jp/ebook/book.php?id=70)。 5 第3の支援  私は、第1の社会化支援(社会の一員としての充実)、第2の個人化支援(個人としての充実)とともに、「第3の支援」を提唱している(西村「若者の居場所に求められる第3の支援」日本精神衛生学会発表2020年 http://mito3.jp/seisin36.html)。それは、「未来の充実」に向けた発達ではなく、図に示したように、「いまの充実」をめざすものである。そのことによって、原点リセットとしての癒しを提供し、シフトチェンジの契機となると考える。  第3の支援には、次の特徴がある。肩を押してくれる。見守ってくれる。話を聞いてくれる。多様な機会を提供してくれる。自由にやらせてもらいたいという若者の気分にマッチしている。自由の浪費から意味ある時間へと転換させてくれる。動けないときに押してくれる。行き過ぎを是正してくれる。許してくれる。「ちょっと違う」と言ってくれる。方法、広がりが限定されず「何でもあり」である。ウォッチして、プラスがマイナスかを判断する。個人の変化に対応する。ラベリングしない。癒しによる「原点リセット」機会を提供してくれる。プッシュもせず、プルもしない。いわば待ちの教育である。そのためには、拠点施設に定期的に存在することが重要であろう。  このような「第3の支援を含めた3本立ての支援」こそ生涯の発達を支援する教育と考えたい。社会化支援と個人化支援については、ワーカーが「連続的観察」による全人的理解によって、個人の一体的支援に努める必要がある。そして、ワーカーが居場所において若者個人に接する場合、とくに第3の支援が重要になると考える。ただ、私は、これを「教育の否定」としてとらえるのではなく、教育目的のもとに行われる「教育」の一環としてとらえたい。また、たとえば同調圧力との闘いなど、若者の望ましい個人化、社会化のための支援も、同時に行われるべきことと考えている。 6 ICTを使い倒そう  通信衛星を利用した市民講座の場で、参加していた自主グループの女性たちが、遠く離れた懐かしい大学教員を見つけてキャーキャー騒いで喜んでいた。神妙な面持ちで参加する他の大学教員とは対照的だった。しかし、遠いところの人と出会えるというのは、まさに遠隔教育のメリットと言える。喜んでいた女性たちのほうが、ニューメディアを使いこなしていると言ってもよいだろう(西村「ニューメディアをひっかきまわす若い母親たち」本誌1997年12月 http://mito3.jp/seika/1530.pdf)。  ICTに関しても、今は「エンターテインメント」として楽しむ傾向が強い。ユースワークにおいては、さらに、個対個の出会いと深い交流を味わう機会として、ICTを活用したい。すなわち、ICTをコミュニケーションの道具と割り切って、いわば「使い倒す」のである。  私は、大学教育において、なんでも自由に書いて、次週に教師が紹介し、コメントする「出席ペーパーシステム」を導入して、学生参加型双方向授業を行っていたが、BBS(電子掲示板システム)を導入して、交流を活性化させた。現在は、グーグルドライブなどによって、さらに共同作成ワークなどにも発展させている。これらがすべて無料でできるのだから、ユースワークに使わない手はあるまい(西村美東士ICTシステム http://mito3.jp/ccc)。  また、「マインドマップ」も有力なツールである。指導者が、若者の望むテーマで本人にインタビューし、これをマップに書き込んで構造化してみせる。そのマップを本人が説明すれば、彼は自分の考えを構造的に理解し、理論的に説明したことになる(西村「若者との協働による価値創造の新しい方向」本誌、2017年 http://mito3.jp/seika/3690.pdf)。 7 組織だからできること  学校や社会教育施設の指導者は、組織に所属しているというだけで、多くの若者が無条件に指導者個人に親しみや信頼を寄せてくれるということを体感してきた。定年退職後の私は、それを痛感している。しかし、組織の縛りの中で、指導者個人が個性の発揮を妨げられているというのも事実であろう。  私はボトムアップの有力なツールとして、クドバス(CUDBAS)に注目している。凸版印刷では、トップが滝野工場のクドバスの成果に注目し、その「社内水平展開」を指示した。ローカルから発したクドバスが、全体に波及して総合化されるという動きについて、私は「組織の中で、ボトムアップとトップダウンがスムーズに(気持ちよく)往復し合ったからこそのこと」と評価した(西村「職業能力の見える化がもたらすもの」、齋藤ゆか他『学びの見える化の理論と実際』勁草書房、2023年 https://www.keisoshobo.co.jp/book/b622007.html)。本書の表紙帯には「見逃せないのが、『気の進まない作業』と『どんなにたいへんであっても苦労とは感じない作業』があるとしていることだ」と書かれている。『気の進まない作業』とはボトムアップの伴わないトップダウンの横行によるものといえよう。クドバスでは、自己内対話によって書き出した能力カードによって、社員一人一人が自分を活かし、組織の中で個を発揮することにつながった。ワーカーと彼が所属する組織との関係についても、このようにして、ワーカー個人の自己発揮と、組織への参画を実現するものであると私は考える(西村「「職業能力の見える化がもたらすものは何か」、職業教育開発協会「CUDBAS研究大会」2023年 http://vedac.or.jp/kenkyuu.html)。  私は先に、第3の支援を「教育の否定」としてとらえるのではなく、教育目的のもとに行われる「教育」の一環としてとらえたいと述べた。組織の教育方針の追求と、ワーカーの自負や独立性を、このようなボトムアップとトップダウンのスムーズな往復によって両立させたいと考える。  組織の中で働くことは、楽しいことばかりではない。しかし、組織への「恨み辛み」だけで生きていくことは、個人としては不幸なことだ。個人は組織の中で充実するということも、もう一方の事実である。だとしたら、ワーカーは、「恨みの誤解より楽しい誤解」を大切にしていきたい。 8 高齢指導者の活躍の場を  最後に私のような「高齢指導者」に、リカレントとして、活躍の場を与えてほしいという希望を述べておきたい。ただ、若者にとって「迷惑な高齢者」になってしまっては、その「活躍」は逆効果である。  先に述べたように、若者は「敵か味方か」を敏感に嗅ぎ取る。そのとき、その若者個人にとって自分よりヒエラルキー上位、学歴上位の者の知より、自分の「味方」になる知の引き出しを持っていることが、ワーカーにとって重要である。その「引き出し」は、講義ではなく、ワーカー個人と若者個人との出会いの中で発揮される。高齢指導者のこれまでの知恵と経験が役に立つに違いない。そして、それは、水平な関係の中でこそ発揮されよう。  私は学習相談を「個人(または援助者)の求めに応じ、学習環境等の客観的条件や、精神的・身体的な問題等の主体的条件などの、その個人特有のそれぞれの条件にもとづいて情報提供、助言、対話等を行うことにより、学習情報の収集・選択や学習の意欲・能力の獲得などを支援する教育(学習援助)サービスである」とした(西村『こ・こ・ろ生涯学習』学文社、1993年)。まさにワーカーの役割と言えよう。そこでは、相談の中で、「相談員も相談者とともに自ら主体性をはぐくむ」ということが大切だと書いた。このように高齢であっても「現在進行形」という構えが必要である。  高齢指導者はどのように活用すれば良いのか(私も求職中の身である)。ある大学では、名誉教授に大人数講義ではなく、1年生の少人数ゼミを担当させ、学科導入教育を行なっている。本稿で言う「個人に合わせた引き出しを示す」というワーカーの姿と共通する考え方に基づいているものと思われる。  そのためには、事務室ではなく、コンツェルジュのようにロビーのデスクに定期的にいて、総合的なワンストップ相談を行なうのが良いと思う。事務室で「多忙の事務を請け負う便利な事務補助」ととらえてはいけない。若者同士の相互関与を深めるというユースワークの特性から言って、場所は事務室でも、相談室でもなく、ほかの人も見守ったり助言したりできるような環境が良いのではないか。デスクには2方向のマルチディスプレイを置いて、相談者本人の言葉を「マインドマップ」に書き込んで構造化してみせると良いだろう。このことによって、「ワーカーをやりたい」というわれわれの志しを実現したい。