全国公民館連合会『月刊公民館』519号、pp。41-42、2000年8月 自分のストレスを主観的にしゃべろう 徳島大学大学開放実践センター助教授 西村美東士  徳島大学大学開放実践センターでは、市民と教官が自由に語り合うフリートークサロンを開いている、先日は、同窓会の六一会が主体となり、その他の一般市民の参加も得て、 「私のストレス解消法」をテーマに、「ストレス度チュック」や「カード式発想法」で楽しいおしゃぺりをした。その場で、センターの川野卓二助教授が、専門の心理学の立場から、 外的要因としてのストレッサー(ストレスを引き起こすもの〕と自分の内側のストレス状態との関係や対処法についてタイムリーなアドパイスをしてくれた。  ぼくはその話に思わずうなずいてしまった。ぼくの理解では、話の要点は次のとおりである。@まずはストレッサーから遠ざかれるのなら遠ざかること。A次にストレッサー を避けられない場合は、自己の内面での処理の問題になる。B自分にはストレスがまったくないと思っているとしたら、それも深刻な問題である(知らず知らずのうちに身体のほうに支障が出ていることがある)。  まず、@にぼくは心打たれた。公民館職員にだって、できること、できないことがある。 できないことをいつまでも引きずってストレスにするのではつまらない。たとえば、どうしてもわかってもらえない相手については、 深追いせずに潔くあきらめましょう、これはやみくもな叱吃激励などよりもよっぼど誠意あるアドバイスだと思った。  しかし、ストレッサーのまったくない職場などはありえない。ストレッサーから避けられない場合に問題になるのは、自分の心の中のAの問題である。ストレスが不快なのは。 だれでも同じだ。また、できることはできるし、できないことはできない。それなのに、「ストレスになるのがいやだから、やれることもやらない」(ぽくもその傾向が強いが)となるか、「ストレスになるのはいやだけど、やれるだけのことはやってみる」となるかは、それぞれの人の心の中の処理によって異なる。どちらのストレスのほうがましなのか。  公民館といえども、職員一人ひとりは「技葉」にすぎない。「幹」は公民館や住民の合意形成などのなかなかやっかいな代物だ。そこでの枝葉としての自分は、どうしたら存在していてよかったと思えるのか、その答は、どれだけ自分の納得のいく提案の仕方ができたかということではないか、自分で納得できるものならば、少なくとも自分の胸のうちにはさわやかな風が吹き抜けているはずである。 ぼくは元気がなくなると、この社会の中を元気に生きている市民や学生などとおしゃべりをして元気をもらってしまう。そこで気づいたことは、彼らがたまたま枝葉としての不運な目に会っていないから元気、ということではないという事実である。彼らは幹を変えられたからではなく、変えようとして行為できた自分に満足している(自著「癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方」学文社における「幹と技葉」の議論より)。ストレッサーから逃げようとしても、かえって問題を生じたり、ストレスを抱え込んだりするようなら、そういう自分に目を向けるといいのかもしれない。そもそも、よく思い直してみれば、枝葉である自分の意見がすべて幹に採用されたとしたら、それも恐ろしいことだ。自分の提案が採用されないかもしれない(敗北)という幹に決められる「結果」 ではなく、採用されないと自分は傷つくと思い込んでいる自分自身のはうを思い直すべきではないか。そして、「私はやれるだけのことはやってきた」「相手も聞くだけは聞いてくれた」と思えるようになれば、ストレスはずいぷんましなものになるだろう。  そのためには、自分の納得のいく提案の仕方を覚えなければならない。客観性を装った言葉で職場のストレッサーをいくら並べ立てても。それは表層にすぎない。それよりも自分のストレスを公民館の仲間に「主観的に」しゃべってみたらどうだろうか。実感を伝えるのだ。あなたの実感はだれにも否定できないあなたの真実である。公民館の仲間にそれが共感してもらえれば、ストレスもずいぶん減るだろう。同感されることはなくても、共感さえしてもらえれば、自分のストレスはもう置いて、よりよい公民館運営のあり方のための提案を安心してのびのび行えるのではないか。それにしても、ストレスがまったくなくなるということはあるまい。細胞が真に弛緩できるのは。身体が生きるのをやめたときだ。Bでいうような身体的状態に陥らないためには、気を取りなおす前にきちんと落ち込むことが大切なのだろう。後向きになっているときも、職員個人にとっては大切な時間だ。森田正馬の臨床心理学では、「気になることは気にすればよい」と説いている。 そうしていれば「流転」が生じて自然に解消するというのだ。状況による後向きというのは、実は生産的な生き方のーつだといえる。  ぽくは「個の深み」という考え方を提起している(「生濯学習か・く・ろ・ん」学文社)。人は、他者の個の深みに出会うことによって、 自分の個の深みに気づくために生きているという言い方ができるのではないか。個性だけなら石ころにでもある。しかし、人の個の深みは、出会いがなければ本人も気づかないままに過ぎ去っていく。そして最近思うのだが、 個の深みは主体的に自らが育てようとして育つというだけではなく、各人の宿命の中で「受動」としてより深まっていくのではないか。このことは中村雄ニ郎のいう「受苦」に通じると思う(「臨床の知とは何か」岩波新書等)。中村は身体をそなえた主体としての人間について「能助的であると同時に他者からの働きかけを受ける受苦的な存在」としている。  外的要因としてのストレッサーも、その人の宿命のーつであろう。ストレッサーの内容によっては。個の深みにつながらない、避けられるのなら避けたほうがよい薄っぺらなものもあるのかもしれない。逆に、自分の人生にとってのかけがえのないストレッサーもありそうだ。さて、公民館職場のストレッサーは、主にどちらのものなのか。ぼくは後者のものと考えたい。いずれにせよ、その答は、ストレッサー(外的要因〕だけではなく。ストレス状態(自己の内面)そのものに深く迫らないと、自分にも相手にも見えてこないのだと思う。