徳島市学遊塾広報誌『ぶどうの木』原稿 私らしさの生涯学習  −きらっと輝くかけら 徳島大学大学開放実践センター助教授 西村美東士(mito)  今日、若者、サラリーマン、主婦など、たくさんの人が、生涯学習活動のほか、ボランティア、地域・市民活動などの社会的自己決定活動を忙しい時間を割いて行っている。その理由の一つに、「私らしく生きたい」というものがある。ぼくも委員として関わっている栃木県佐野市の生涯学習推進の合言葉も「私らしさ咲かせます」である。  なぜ、そういう場面では私らしくいられるのか。@自分自身がやろうとしてやっていることだから、A暗黙のうちの強制ではなく、そのように自己決定で集まってきた仲間たちとの時間を過ごせるから、Bその仲間関係が、職場などと違って、基本的に水平の関係だから、などが考えられる。  しかし、確信できる「私らしさ」を見つけることは容易なことではない。もともとは白紙の状態である自分に「私らしさ」を書き込んでいくことが生きていくことであろうし、また、状況に応じてくるくると変化するのも「私らしさ」の実際の姿であるから、どれと確定することは困難だからである。  先日、入学試験の監督をした。ちょっとしたミスもあってはならないという緊張を感じながら、なお、受験生が待機している教室に入るとき、彼らにペコッとお辞儀をしている自分に気づいておもしろかった。これも、ぼくの「私らしさ」であろう。ただし、それは「かけら」として表れたにすぎない。ぼくがつねにそういう謙虚(?)な人であるというわけではない。  水平かつ個性的に人やものごとと出会う生涯学習の活動においても、それぞれの「私らしさ」は、きっとこのように「かけら」としてときどき表れるものなのではないか。ただし、「教える人は学ぶ人、学ぶ人は教える人」という関係のなかでは、それはきらっと輝く「かけら」なのだろう。  ぼくは、いま、センターで公開講座『私らしさのワークショップ』を行っている。楽しく学ぶことを通してワクワク、ドキドキしながら自分らしさを発見しようというものだ。来年度は、居心地よい人間関係のつくり方などのテーマで年間を通して実施する。  この講座で出会う人たちと過ごす「フリースペース的飲み会」を含めた時間は、ぼくにとっても、互いに安心して「かけら」を光らせあうことのできる時間だ。これは、生涯学習以前の見比べあう視線の上下同質競争の場ではもちえない居心地のよい時間である。