教育課程改定の中間まとめを読んで  自己革新を阻む者は自分自身 昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士  現代社会における教育は、子どもたちの発達や成長ばかりでなく、癒しや安らぎをも重視することが必要だとぼくは考えている(自著『癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方』学文社、一九九七年四月)。そして、今度の教育課程改定における「総合的学習」やゆとりのある教育時間などの考え方にも、その萌芽となる志向を感じる。  こういうと、「いや、学校現場の現実はもっと厳しいものだ。教育課程が改定されたって、どうせ今までと変わらないか、悪くなるだけさ」という悲鳴にも諦めにも似た教師からの反論が今にも聞こえてきそうだ。しかし、そのように自己革新を阻むものがあるとすれば、それは何なのか。今回の中間まとめの「教育課程の基準の弾力化の趣旨を踏まえ、各学校において創意工夫を生かした特色ある教育課程編成・実施が一層可能となるよう」という文面にあるように、いや、この文を待つまでもなく、学校現場には主体的な変化や創造が求められているはずだ。「私たちがそうしようと思っても、文部省はそれを許さないよ」という言葉はよく聞く。だが、その言葉は、本当に文部省が弾圧してくることを確かめてから発されているのだろうか。  高度な政治的判断に抵触する事項についてはともかく、そのほかの一般的な教育課程の編成については、せいぜい市町村や県の指導主事の個人的な考え方とぶつかるという程度のことである場合が多くないか。今の時代、文部省のトップは、むしろ、地域や学校現場のいきいきとした独創的、個性的な取り組みに教育活性化の展望を見出そうとしている。もしかしたら、あなたの考える教育課程の編成・実施こそが、子どもたちや地域ばかりでなく、首長や国などの「権力」からも歓迎される結果になるかもしれないのだ。だとしたら、同僚や「少し上の人」とはのびのびと論争し合っていただいて、ぜひ教師自らが楽しく実施できる教育課程を編み出してほしい。論争さえ吹っかけたことがないというのなら、それは権力による弾圧のせいではなく、本質的には、教師自身の中にある「変化を恐れる心」や「自己決定を回避しようとする心」のせいではないかと自省してみることも必要だろう。  ぼくは、大学教員の一人として、大学の生涯学習理念にもとづく自己革新の成否は学内の意識変革にかかっているとし、「儲けたいとは思わないけれども、かといって、大学がつぶれてしまうのも困る」という消極的なサバイバルや、制度的権威への依存の姿勢から脱却して、自己決定の学習の支援という大学の社会的な役割を、より時代にあったかたちで遂行し、そのことによってみずからもその役割を味わい喜ぶ積極的な攻めの経営に転換する必要があると訴えた(前掲著)。その自己革新は大学の自己決定によるものであり、それゆえ惨めなサバイバル・ノイローゼなどとは異なる自信に満ちた楽しい営みである。自己決定の学習のなかで個人がワンダーランド(わくわくする世界)と出会えるのと同様に、学校教育自身も、自己決定の生涯学習化のなかで自己変容という本来の学習の楽しみと出会うことができるのだろう。その意味では、今回の教育課程改定も、学校現場の自己革新の道具としてのびのびと活用されることを期待している。