体験活動はワンダーランドな社会教育  昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士(mito)  ぼくは次のように問うてみたい。社会教育って何だろうか。教育されたい人っているの? 指導されたい人っているの? この世の中、親でも教師でも、相手を教育したい人、指導したい人ばかりが目立つ。それゆえぼくには、社会教育の「教育」という言葉がどうも変に感じられたり、青少年指導者の「指導」という言葉が空々しく感じられたりする。  在日韓国人に日本語を教えるボランティアをやっているある学生が出席ペーパー(拙著『生涯学習か・く・ろ・ん』『こ・こ・ろ生涯学習』参照、ともに学文社)に、次のように書いてきた。「時間をあせって答を教えてしまったところ、オモニ(ハングルでお母さんのこと)に『私が学びたいのです』と叱られてしまった。そこでmitoちゃん(ぼくのこと)のいう主体性の意味に思い当たりました。でも、それでは教える私の主体性はどこにあるのでしょうね」。この学生のようにちゃんと悩んで教えたり、指導したりするのならば、その教育や指導は歓迎されるのではないか。  それにしても、そのオモニの「私が学びたいのです」という言葉こそ、社会教育の原点であり、体験活動の意義を如実に示す言葉でもある。ふと山を見てきのうまでの自分とちょっと変わるというような偶発的学習を含めて、みずからの感動、納得を伴う学習をぼくは「ワンダーランド(不思議の国)」と呼んでいる。ワンダーランドでなければ社会教育じゃない! ワンダーランドによってみずからの枠組み自体が変容するのでなければ生涯学習じゃない! 体験活動を含めてこういうワンダーランドを日々味わうことを生涯学習という。生涯学習とは、自分の人生を大切にていねいに生きることであり、社会教育もまたその一環である。あなたはこの一週間で、いくつぐらいのワンダーランドと出会っただろうか?  つぎに、人との出会いの体験について述べたい。社会教育・生涯学習の援助においては、発達・成長だけではなく、癒し・安らぎを大切にする必要がある。「ぼくが宇宙で一人だけで生きているのなら、もっと自分らしさを守れるのに」という出席ペーパーがあった。人間存在というものの切ない否定的真実を的確に言い表した言葉だ。しかし、勤労体験学習やボランティア体験学習などには、これを上回る人間の肯定的真実がある。「あなたがいてくれてよかった」ということを伝えてもらう体験(ストローク)は、体験者にしかわからない至福のワンダーランドである。そして、これらの出会いがつぎのテーゼを確信させてくれる。  個は他者と関わることによってより深まる。  人によって傷ついた心は、人によってしか癒せない。  このような自他肯定の出会いと気づきの体験が、「他者がいてくれるから、わたしはますます自分らしさを守り育てることができる」というもうひとつの真実のワンダーランドの幸せを味わわせてくれるのである。