「発表申込」原稿 生涯学習とは何か  −現代的課題の認識のもとでの再定義の試み−  現代人の意識を表わすいくつかのトピックスに基づき、生涯学習支援の実践的、体験的な問題意識から、つぎの3点にわたって生涯学習に関する新定義を提案する。@「発達だけでなく癒しも」=発達・成長の欲望だけでなく、「癒されたい、安らぎたい」という人間の自然な欲望も、生涯学習の動機である。A「事実よりも真実を」=生涯学習は、事実のインプットのためよりも、真実に少しでもふれてワクワクするためにこそ、行われる。B「積極的積極性とともに積極的消極性を」=生涯学習を、「誰からでも何からでも学びたい」という「積極的積極性」の行為と定義するとともに、それを持続するための、ほかの側面での潔い撤退、すなわち、「積極的消極性」の意義をも明らかにしたい。 「発表要旨収録」原稿 生涯学習とは何か  −現代的課題の認識のもとでの再定義の試み− 昭和音楽大学 西村美東士 発表要旨  現代人の意識を表わすいくつかのトピックスに基づき、生涯学習支援の実践的、体験的な問題意識から、つぎの3点にわたって生涯学習に関する新定義を提案する。@「発達だけでなく癒しも」=発達・成長の欲望だけでなく、「癒されたい、安らぎたい」という人間の自然な欲望も、生涯学習の動機である。A「事実よりも真実を」=生涯学習は、事実のインプットのためよりも、真実に少しでもふれてワクワクするためにこそ、行われる。B「積極的積極性とともに積極的消極性を」=生涯学習を、「誰からでも何からでも学びたい」という「積極的積極性」の行為と定義するとともに、それを持続するための、ほかの側面での潔い撤退、すなわち、「積極的消極性」の意義をも明らかにしたい。 最近の関係記事(拙論)  1つめは、「発達だけでなく癒しも」です。人間、日々発達しているのを実感するのもうれしいことですが、実際には、それだけじゃなく、「癒されたい、安らぎたい」という欲望もあるのが自然だと思います。前者だけを声高に相手に押しつけるのって「ウソだな」と思うのです。  2つめは、「事実よりも真実を」です。学習というのが、つまらない事実の集積に圧迫されることであるようなマイナスイメージが、小学校以来、ぼくたちにありまして、これがワンダーランドとしての生涯学習への接近を妨げている。ほんとうのところは、事実なんかはおもしろくない。ぼくたちは、事実のインプットのためではなく、真実に少しでもふれてワクワクするためにこそ、出会い、生きているのだ。事実は、その集積が真実に近づくときだけおもしろいのだ。と、このように思うのです。だって、ともこさんだって、ご自分の歌詞を「事実と違うわね」といわれたって「当たり前でしょ」と思うだけでしょうけど、もし、「真実とは無縁ね」などという失礼なやつがいたら、「どうしてよ」となりますよね。歌詞も、人間存在の真実に接近するすばらしい虚構のひとつなのだと思います。  3つめは、「積極的積極性とともに積極的消極性を」です。「誰からでも何からでも学びたい」という積極的な生き方をするひとを見ていると、じつは、撤退せざるをえないような場面の多いこの世の中で、積極性発揮の一方で、他者のせいにすることなく、さわやかな撤退をどこかでじょうずにしている。ぼくはこのような自己決定・自己管理型の「潔い撤退」を「積極的消極性」と呼んでいます。生涯学習や人間交流のような「積極的積極性」の行為は、この「積極的消極性」と連動関係にあると思うのです。この2つに対して、「消極的積極性」(やりたくないけど頑張っている)、「消極的消極性」(被害を受けているからできないでいる)の2つが、ワンダーランド発見のネックになっていると思います(じつはぼく自身のことですが)。 (全日本社会教育連合会『社会教育』「くえすちょん あんど あんさー」平成7年7月号より) 参考 @「発達だけでなく癒しも」−情報化との関連でいえば…  情報化の「光と影」の存在は、従来から指摘されてきた。しかし、その「影」のひとつとしての人間疎外の問題を究明しようとする場合、従来の研究方法においては、情報化社会のなかで生きる人間を客体としてとらえたうえで、その客体をどう保護するかという問題に終始してきた観がある。これは、成長・発達や癒し・安らぎをみずから求める存在として学習者をとらえるという生涯学習支援の観点が欠落していたからではないか。従来のような研究方法にとどまる限り、情報流通を人間的交流のためのより有効な手段としたり、ネットワーク型社会を創造する主体の成長を図ったりするための方途を探り出すことは、行き詰まりになるだろうと思われる。  もっと現代人の内面により深く立ち入って考察し、その「不信・孤立・甘え」の悪循環を繰り返す主体としての問題を本質的に明らかにしたい。そして、ともに育ち、情報リテラシーを獲得しようとする教育的観点から、この問題に根本から立ち向かって議論を深め、そのことによって、「異質情報」を主体的・批判的に摂取するネットワーク型の「信頼・共感・自立」の情報受発信主体の成長と共生社会の創造に向けた展望を明らかにしたい。そのためには、成長・発達だけでなく、癒し・安らぎを求める心も生涯学習の動機として重視する必要がある。 A「事実よりも真実を」  起草委員としてぼくも関わった練馬区生涯学習推進懇談会答申「土とみどりとひとと自分に出会える練馬をめざして−練馬区における生涯学習のあり方とその推進についての提言」(平成6年2月)においては、「人は生涯、学習すべし」という「べき論」を排除し、「どこまでも知りたい」という自然発生的な欲求を生涯学習論の根源的な動機として重視しようとした。しかし、さらには、その「どこまでも知りたい」という場合の学習対象とは何かということを考えておかなければならないだろう。これに関してぼくがいいたいことは、「どこまでも知りたい」のは「事実を」ではなく「真実を」であるということである。事実の積み重ねに終わるのでは、駒田のいう「深い感動」(省略)もないであろう。社会教育の授業においても、学習者の頭のなかでいわゆる「社会教育の知識」が肥大化するだけの結果に終わるのであれば、それは生涯学習社会が打倒しようとしている学歴偏重社会と同じ穴を掘っている蟹にすぎなくなるのである。どちらも「学びたいから学ぶ」というワンダーランドとしての学習が疎外されているからである。  もちろん、枠組みは変えないままその枠組みに知識を詰め込むことにこそ「学習欲求」を感じるという人もいるかもしれない。しかし、ぼくには、そこに、「職場の誰がどこの出身で、どこの派閥に属していて、どこから異動してきて、今度はどこに異動するか」をつねに嗅ぎまわっているためにそういう知識が豊富になった人を見るときのような、やりきれない切なさを感じるのである。その人は学びたいことを自由に学べばよいと思うが、そんなタイプの学習にとどまっているあいだは、社会が人や金を使ってそれを援助することもないであろう。  ぼくは、ここで現代の実証的学問の存在意義を全否定しようとしているのではない。実証の積み重ねが事実に関する知識の肥大化(暗記)にとどまることなく、真実の追求のために有効に機能する場合だって多いのだ。ただし、その場合でも、「真実をどこまでも知りたいから事実を知ろうとする」という主体的な目的意識が求められる。 B「積極的積極性とともに積極的消極性を」  偶発的学習も生涯学習の一環として考えようというのが、ぼくの主張である。そうしないと、生涯学習実態調査などで、「継続的・計画的学習」をしている人たちだけをとらえて「わが町で生涯学習をしている人は何%、生涯学習していない人は何%」などという忌まわしい言い方が、いつまでもなくなりそうにないからである。  しかし、各市の委員会などの場で、社会教育や生涯学習の関係者の前で、ぼくが「勝手に散歩でもしていて、でもそこで感動して何らかの自己変容があれば、それはその人にとっては大切な生涯学習だ」と発言すると、必ずといっていいほどひんしゅくを買うことになる。関係者から、「それじゃあ、人間のすべての行動が生涯学習だということになってしまうではないですか」といわれるのである。ぼくは人間のすべての行動に生涯学習としての側面があるととらえるのならば、それはそれでもよいと思っている。市の道路行政による散歩道の保守管理が生涯学習支援の側面からもとらえられるようになることこそ、「行政の生涯学習化」といえると思うからである。だが、ひんしゅくを買いっぱなしでいるのもどうかと思い、人間の活動のなかに生涯学習と呼べない活動があるとしたら何なのかを考えた結果が、この「2つの積極と2つの消極」論である。  練馬区の生涯学習推進懇談会の答申の作成に関わって懇談会委員同士で議論を重ねることによって、ぼくは、生涯学習が「どこまでも知りたい・上手になりたい(発達・成長したい)」と「癒されたい・安らぎたい」の2つの欲望から発すると考えると、とても自然な理解ができることに気づかされた。「教育」という名がつく世界にいるうちに、「人間はつねに発達していくべき存在」という考えを知らず知らずのうちに身に付けていたぼくが、日本文学専攻のある委員から「西村さんは、何かにとらわれているのではないか」と指摘されたことから、その議論は始まった。そして、とうとう、「人間はつねに発達していくべき」すなわち「学習すべき」という姿勢を払拭した画期的なものになった。  この「どこまでも知りたい」と「癒されたい」は、ともに自らの欲望を充足しようとする自己の意思から発した積極性の発現としてとらえることができる。論をつぎに進める前にここでとくに留意しておきたいことは、「癒されたい」という欲望から発する行動も、ここでは「消極」ではなく「積極」としてとらえているということである。なぜなら、人が癒されるためには、他者からのストロークが必要であり、ストロークをうまくもらうためには、相手にうまくストロークを出したり、開きたい心を安心して開いて交流できる水平なネットワークを見つけ出したり創り出したりする積極性が必要になるからである。「どこまでも知りたい」と「癒されたい」とは、ともに積極的な行為につながらざるをえないのである。  これを前述の「人間のすべての行動が生涯学習ということになってしまう」という反論への反・反論として活かすならば、次のようになる。「そうではない。どこまでも知りたい、癒されたい、などの欲望から発する積極的な行為だけが生涯学習なのであって、テレビも見ずに自分の部屋でボーッとしているなどの消極的な行為は生涯学習とは呼ばない」。そして、こう付け加えるべきだ。「生涯学習活動や積極的行為だけがすばらしいということをいいたいのではない。ボーッとしている時間(無為)もその人にとっては大切なのだ。それは、つまらないと自覚する欲望を捨てた潔い消極性というべきであろう」。  今回提示した「2つの積極と2つの消極」論は、以上の議論の経緯のうえに立ち、それを発展させたものである。生涯学習においては自分の欲望や意思に基づく「自己決定」という要素が重要である。結果的あるいは外見的には同じ積極性であっても、それが本来の自己決定でなければ、従来の学校歴偏重社会における受験勉強(これもまた、単純にけなすことはできないが)と生涯学習活動とは、変わりないものということになってしまう。ここで「自己の欲望に基づく本来の自己決定」とは、すなわち、社会や人のせいにしていない、すなわち「自分のため」に、主体的にやっているということである。ちなみに、生涯学習活動だけでなく、ボランティア活動にとっても、この「自己決定」は重要である。そこで、同じ積極性でも、同じ消極性でも、それぞれをはっきり別のものとして考えるために、次の4タイプを整理して提示したのが今回のぼくの議論である。   主体  結果・外見 T 積極的 積極性   自己決定(生涯学習・ボランティア) U 消極的 積極性   仮面・戦術(受験勉強) V 消極的 消極性   敗北主義(被害者意識) W 積極的 消極性   自己決定(無為・潔い撤退)  ぼくは、あとから、この4パターンがぼくが予期した以上になかなか有益な分類であることに気づいた。たとえば、生涯学習活動や地域活動やボランティア活動をしている人のなかにも、その活動をしていない人に対して「けしからん」「〜すべき」といういい方をする人がいる。そういう人は、いわば「過去と他人は変えられない」という厳然たる事実にイライラしているのである。潔くなれないのであろう。じつはこの人たちは、本来の「自己決定」の生涯学習としてのTの状態にあるのではなく、「不幸の手紙」をもらった人のようにUの状態にあるのではないか。もし、Tだったら、「この活動はとても魅力的だよ、素敵だよ」「いつでもおいでよ、歓迎するよ」と言うことはあっても、そういう活動をしない人を見て責任を追及する欲求に駆られてイライラするなどという不幸には陥らないと思われるのである。Tの人は、むしろWの人と連帯しやすいのではないかと思う。どちらも「自己決定」であり、「潔さ」が共通しているからである。  しかし、Uの状態も、ヒエラルキー社会においては、残念ながら、完全には回避することはできないだろう。仮面や戦術を使わなければ、あっという間に世間から干されてしまうからである。Uについては、回避が不利になるのならば、これを無理に避けるのではなく、むしろ、仮面・戦術としてきちんと意識してこれを選び(これもひとつの自己決定である)、仮面・戦術であることをつねに思い出しながら「頑張る」のがよいと思う。そうすれば、「頑張らなくちゃいけない」などという不合理な思い込みから自由になることができる。また、ときには、その活動の意義に気づいたり、うまく楽しむ方法を発見したりして、途中でTに切り替わるような幸運も訪れるかもしれない。  Vの状態の人は、本人にとっても社会にとっても最悪であろう。そうはわかっていても、自分の消極性を「過去と他人のせいにして、空しい自己満足と安定を図ろうとする」弱さは誰でももっている。もっているからこそ、こういう4パターン分類法の活用による「客観視」が有益であるというほかにない。TからWの分類は、さまざまな人間がこの4つに分けられるというよりは、一人の人間のなかに4パターンの状態が混在しており、それを整理して判断基準とするために有益であるととらえてほしい。つまり、「よし、今回はわたしはこれでいこう」という、客観視と主体的納得を伴う自己決定のために活用できると思うのだ。  Wの状態というのは、これはもうすごいとしかいいようがない。広大な時空における自己の小ささを穏やかに受け止め、ときの権力や価値観に惑わされず自己に与えられた人生のひとときを静かに味わう。ぼくはその潔さにあこがれや尊敬さえ感じるのだがどうだろうか。社会にとっては直接的利益にはつながらないかもしれないけれど、「立つ鳥、あとを濁さず」「潔い撤退」などのさわやかさは、今後のネットワーク型社会の創造にとってはむしろ重要な要素のひとつというべきであろう。そういう「潔い撤退」などのWなら、ぼくたちのような俗人にでもそれなりに実現できる状態であろう。  生涯学習は「学びたいことを学びたい手段で学ぶこと」であり、「自己管理型学習」であることから、本質的にはTの状態のものといえよう。Tの状態としての規定は、先に述べた「生涯学習は積極的な行為」という規定よりは的確であり、Uの状態での従来の「させられている学習」などとの違いをより明確に位置づけることのできる規定としても、なかなか有益であるとぼく自身は考えている。  なお、TとWは連動関係にあるのだろう。ある一人の人がTのような生涯学習をするためには、どこかでWの「潔い撤退」をしているはずだ。この4パターンの分類が、Tのタイプの生き方(積極的積極)の人が「生涯学習的」であるなどという機械的なタイプ分けだけで終わるのなら、実質的には意味がないのであり、それよりも「潔い撤退」が許されるネッワーク型社会における自己決定のあり方を探るということにこそ、この4パターン分類の意義があるのだろう。