先生という言葉をやめてみよう 社会教育「くえすちょん あんど あんさー」5月号  ともこさん、はじめまして、こんにちは。それから、こぶとり小父さん、笑う事務職・まみさん、楽しいやりとりをありがとうございます。さて、このように、ふつう、ひとを呼ぶときは「さん」ですよね、やっぱり。ところが、社会教育の世界では、ひとを「先生」と呼ぶことがけっこう多いのです。そこで、きょうは、「社会教育では、先生という言葉をやめてみよう」という提案をしたくて手紙を書きます。  ぼくは社会教育の仕事を13年やり、いまは大学の教員をやって5年になるところです。どちらもとても楽しくやらせてもらってきましたが、ときどき「先生」と呼ばれることがあって、そんなときは、「あっ、そんなに立派な人物ではありません」と言い訳したり、こそこそと逃げ出したくなったりして、そして、なんだかうしろめたい気持ちになります。よっぽどやましいところがぼくにあるのかもしれませんが。ああっ、たしかにあったりしますけど・・。  そこで、ぼくは、授業や社会人研修などで「mitoちゃんと呼んでね」とお願いしています(まあ、ぼくは残念ながらそんなにかわいらしい外見ではないですから、実際には「mitoさん」ぐらいのところが多いですが)。学生なんかはそれを聞くと、「mitoちゃんだって! キャッキャッキャッ」と笑っています。出席ペーパー(自由なコメントのシステム)に「40過ぎても、ハタチ前のわたしたちにmitoちゃんと呼ばれたいなんてずうずうしいわね〜。でも呼んであげる、mitoちゃ〜ん」と書かれたりもします。  しかし、なかには教師を先生以外の呼称で呼ぶことにマジで反発する学生もいます。あるペーパーに(mitoちゃんという呼称は)「おしつけだ」と書かれていたので、翌週の授業で、「まあ、軽い提案ぐらいの気持ちで受け取ってください」とコメントしたら、「その提案が余計なのです」としぶとく食い下がられたことがあります。彼女のペーパーによれば、「わたしたちが先生、先生なんて言っているのは表だけで、友達同士ではイヤな先公なんか『あのジジイ』と呼んでいる。それは先生なんかは知りたくても知ることのできない世界なのです」ということでした。コノヤローという気もしましたが、ナルホドーとも思いました。「先生」という言葉は、本来は「教師」という意味ではなくて尊敬語なんだと思います。でも、むしろ現実には自分たちのこころから教師をシャットアウトするための言葉として使われているのかもしれません。このひとにも尊敬できるところがあると感じる前から相手をセンセイと呼ぶということは、奴隷が使用者を「御主人様」と呼ぶのと同じことで、かえって信頼を放棄する結果になっているのではないでしょうか。  ぼくは、先生という言葉をつぎの3つに分類しています。@尊敬先生−−「○○先生はぼくにとって大切な先生なんだ」、A便利先生−−「(あっ、名前忘れちゃった・・)センセエ、こんにちは」「(キャバレーのホステスさんが)社長さん、センセエー」、B皮肉先生−−「ほら、うわさをすれば影だね。大先生がいらしたぞ。くわばらくわばら」。だから、まあ、言葉はそれなりに妥当に使われているのだともいえなくはないのですが・・。  しかし、せめて、学校では、教師が自分のことを「ぼくは先生です」と言ってしまったり、職員室で「先生」、「先生」と呼びあったりすることをやめるようにちょっと気をつけたら、学校はもっと居心地がよい世界になるのではないでしょうか。また、とくに、「一斉承り学習」の打破をめざす社会教育としては、学習者の前で講師や社会教育主事の名前を「先生」付けで紹介することは、社会教育の将来にとっても(!?)よくないことではないかと思います。たとえば教育実習などでは実習生の学生が学校現場で「教師としての役割の自覚を高めるために」、「先生」と自称するように、生徒にもそう呼ばせるように、指導されるのです。指導してくれる現場の教師のみなさんの教職にかける自負の高さはわかるのですが・・。もちろん、センセイと呼ばれてちょっとうれしいという学生もいますが、感じなくてもよい余計な重圧を感じてしまう学生もいるのです。「さん」でいいじゃないのでしょうか。自分のことをいうのだったら「ぼくは」「わたしは」でいいじゃないのでしょうか。  社会教育の場などでは、ぼくも、姓で「西村先生」と呼ばれたり、名で「みとし先生」(おっと、これでフルネームを言ってしまった)と呼ばれたりすることがあります。なぜか、名で呼ばれた場合はさほど違和感はなくて、けっこううれしかったりもしますが・・。また、学生などのなかには、「mitoちゃん」のほか、「mitoちゃん先生」という人もいれば、「西村さん」「mito氏(これを音読したら呼び捨てだあ)」「mitoティーチャー」などと書く人もいます。怒って書く人は「あなたは」と書きます。各自、工夫のあとが見られるのです。その人たちには面倒な思いをさせて恐縮ではありますけれど、「教師への呼称などというどうでもいいことで言葉さがしに苦労するのも、たまにはいいことだよね」とも思うのです。ともこさんはどう思われますか? ps ちなみにmitoはもともとはパソコン通信でのぼくのハンドル(ペンネームのようなもの)です。 mito mitoちやん  お手紙ありがとうございました。40過ぎのオバサンが、mitoちゃんって呼ぶのはあつかましいのかしらね〜とも思いましたが、そんなことは気にせず、無礼講で行きましょうね、mitoちゃん〜。  ご提案の「先生」という呼称について、ナルホド、ウンウン、と読ませていただきました。昨今、教育の場では「先生」という呼称はもはや尊敬語ではなく、師弟の間に一線を引くために存在しているというのが大方の実情ではないでしょうか。  私が近年参加したワークショップ等では、ほとんど「先生」という呼称をつかいませんでした。師弟共に名(ファーストネーム)を書いた名札をつけ「さん」づけで呼び合う形式が一番多かったですね。他に、名を呼び捨てにする、とか、自分の呼ばれたい呼称を名札に書く(途中で変更も可)というのもありました。  名で呼び合う方がより早く、より親しくなれるようです。呼び捨ての方が更に親近感を増します。  自分に好きな名前を付けて皆から呼ばれるのも、なかなかいい気分でした。「ウランちゃん」「たまちゃん」「ブギーマン」「オザキコノヤロー」エトセトラ。この時の仲間は今でも私のことを「ホリー」と呼んでいます。  お手紙を読んでいて、mitoちゃんはもしかして「mitoちゃんと呼んで」ということに少してらいを持っておられるのではないかナーと感じました。(違っていたらゴメンナサイ)でも遠慮はいりません。どんどんmito方式を実行してください。良い体験学習になると思います。  ところで、あれは私がハタチ前の学生だった頃のこと。クラブの後輩に手芸を伝授していたことがありました。れっきとした先生を紹介するというのに、「あたしたち、ともこ さんでいいの」という訳。  ある日キャンパスで教授と話していると「あっ、センセーだ」「センセーッ」大声で叫びながら彼女達が駆け寄って来るではありませんか。「センセーッ」「ともこセンセーッ」「・・・」  初めて「先生」と呼ばれた日の、忘れられない思い出です。  楽しいお手紙にウキウキとお返事させていただきました。又お便りいただけるようでしたら、40過ぎのオバサンがmitoちゃんと呼んでも不快でないかどうかお知らせください。やはり少し自信が持てませんので。 ともこ かそけき時空間 社会教育「くえすちょん あんど あんさー」6月号 ともこさん  ギクーッ。「mitoちゃんはもしかして『mitoちゃんと呼んで』ということに少してらいを持っておられるのではないかナー」(←ともこ)……、きっとそうなんですよ。妻は、「あなた、40過ぎて、自分でmitoちゃんなんて呼ぶのはミョー」と言い切ります。うーむ、ここがきっと勘所なんですね。  まず、40過ぎたぼくが自分で「mitoちゃんはね」などと言ったりしたら、これはやっぱり気持ち悪いですよね。実際には、授業でも「ぼくは……」という感じです。ただし、決して「先生はね」なんてことはいいたくもありませんが。とにかく、ぼく自身が自分のことをmitoちゃんと呼ぶのはミョーなので、それと「mitoちゃんと呼んで」ということとを、ぼく自身の思考のなかで混同してしまうときがあるのでしょう。  それから、学食などで「キャーッ、mitoちゃんだ」とか騒がれるときは、少しテレもしますが、それよりも「ともこセンセーッ」と同じで、ウレシーという感じのほうが強いのですが、とくに事務室やほかの教員などがいるところで学生からそういうかたちで声をかけられると、今度はウレシーもあるけど、テレのほうが大きくなるのです。直接のサービス対象である学生にぼくの存在を受け入れてもらっていることのうれしさよりも、同じ年代や立場の人間にどう思われるかのほうが気になってしまうのですね。ぼくにも、当然のことながら、場面によっては、「先生であること」を演じたり仮面をかぶったりする気持ちが出てきてしまうということでしょうか。  でも、教師仲間である著名なピアニストなど(ぼくは音楽はディスコとカラオケだけですが)からもmitoちゃんと呼ばれるときがあって、そんなときはほんとうにほっとしてうれしくなってしまいます。自分が素のままで受け入れてもらえたみたいな……・。この気持ち、わかっていただけますよね、ホリーさん! だから、ぼくはこれからも自分が続けたいと思うかぎりは「mitoちゃん」による「mito的授業」を続けていきますので、ご安心ください。あたたかい励ましありがとう。  「40過ぎのオバサンがmitoちゃんと呼んでも不快でないかどうか」というお尋ねに対しては、これでもうお答えしたようなものだと思います。受講者や社会教育職員の「熟年女性」などからも「mitoちゃん」と呼ばれた経験が何度かありますが、ぼくもうれしいけど、なんだか相手も一瞬「子ども」に返っているようで、ちょっとキケンなウキウキ時空間という感じが楽しめます(あぶないヤツ……)。  話は飛躍しますが、ぼくは最近、結婚するとなんでほかの異性の友だちとのつきあいが少なくなるのだろうと疑問に感じるようになってきました。結婚した途端、とつぜん異性のともだちがつれあい以外にいなくなることのほうがアヤシイ現象だと思うのです。ぼく自身の覚えているところでは、不特定多数の異性の手を握ったり、肩を抱いたりしてどきどきできたのは、小学校中頃のオクラホマ・ミキサーまででした。  こんなことを話すと、若い人たちは、「mitoちゃん、そんなこと心配する必要はないよ。いまの高校生なんか、恋人でなくたって平気で抱き合ったりしてるよ」といいますが、ほんとうに楽しく抱き合ってるのかなあ。このまえ、女子高生の話を耳をダンボにして聞いていたら、「ねえ、あいつら、つきあってるわけじゃないのに、わたしたちのいるところのすみでキスしてるのよ」「あいつらなんか、勝手にやらせときゃいいんだよ」という会話でした。高校生自身が、「異性交遊」(すごい言葉!)を肯定的にはとらえていないのではないだろうか(そういえば「悲しみの性」というような題名の本もありました)。そんなことがあるので、ぼくには、話題の二人のキスは、なんだか楽しいキスには思えないのです。かれらは、愛を求めすぎるがゆえに、愛から遠ざかっているように思えるのです。キスに至る前のもっと自然な「ふれあい」こそが肝心なのに、それは小学校高学年以降、高齢期まで一貫して欠けているように思います。  話を戻しまして、ぼくは恋愛や結婚の主体的、精神的な成立条件としては、「世界中でこの人だけ」と思いあうことだと考えている「ふるい」人間です。しかし、それは、ひきかえにいっさい異性の友だちを絶つことを意味するのではなく、ほかの人ともそれなりにウキウキ時空間をつくりだすことのできる自立した者どうしの自信にあふれたひとつだけの関係でありたいと思うのです。そして、妻以外の40過ぎの「オバサン」だろうが、20前の「小便臭い娘」だろうが、女という性をもつ人間として生きているのであり、そういう生命体(!)から「西村先生」ではなく「mitoちゃん」と呼びかけられることは、「唯一の関係」の楽しみとは別の「もうひとつの」ぼくのひそやかな(でもないか)ドキドキワクワクなんです。じつは、男性からmitoちゃんと呼ばれたときでさえ、なんか「オーッ」とかいって肩を抱いてしまいたくなってしまうんですよ(ウヒャーッ)。まあ、ぼくは抑圧が強いほうですから、実際にはそんなことしませんので、男性の方も安心してmitoちゃんと呼んでください。  ところで、じゃあ、せめてどのくらいなら恋人や夫婦はおたがいの自他を縛りあうことができるのか。ぼくは、つぎの歌の題のとおりだと思っています。それは、「ラストダンスは私と」です。そのぐらいのわがままなら出し合って当然だと思うのです。いかがでしょうか。 自分でもマジメなのかキケンなのかわからないmito mitoちやん  「ラストダンスは私と」ですって! うふ、素敵なご夫婦! でも早いうちに奥様の同意を得ておいてくださいね。  ところで「てらい」についてあれこれ考えてみました。mitoちゃんの「てらい」の原因は「ちゃん」という接尾語が主として子供の名前に使われるというところにあるのではないかしら。40も過ぎちゃうと「そこまで可愛くはないよなぁ」と、ふと思ってしまう……。  これを姓の頭文字にくっつけると、大人っぽくなるんだけど。松ちゃん、浜ちゃん、山ちゃん等々。  私は中学、高校時代の友人達と集まると「ミコ」「マコ」「チコ」などと呼び合っております。仲間内では全く問題ないのですが、喫茶店、電車の中といった公共の場で思わずボリュームが上がってしまうと、なかなか恥ずかしい、衆人の冷ややかな視線にさらされる結果となるのです。チコは(キャッ!)今これを書きながらも大いにテレております。  呼び名における「てらい」のTPOといったところでしょうか。  さて、「mitoちゃん」について更に考察を深めて参りましょう。  「ミョー」「テレ」等の感情に揺れながらも、西村ミトシ氏は何故に「mitoちゃん」と呼ばれると「ウレシー」のでしょうか。  ものは試し。あれこれ呼んでみましょう。  mitoさん、mito氏、mitoshiちやん、mitoshiさん、西ちゃん、ニッシー、mitoちゃん……ウーン、やっぱりmitoちゃんが一番ピッタリしますね。呼びやすく、親しみやすく。ご自分でも「自分が素のまま受け入れられたように感じられる」とのことですし。  ま、実際に面と向かって呼ぶ場合には、呼ぶ側にも「てらい」のTPOがあるわけですが。  ここでちよっと筆を止めて思いめぐらしている内にハッとひらめいたのですが、mitoちゃんと呼ばれることは、開かれた社会教育を目指すmitoちゃんの成果そのものではないでしょうか。しかもその成果はかなり挙がっていると推察されるのですが、いかがでしょう。  それからドキドキワクワク既婚者の異性交遊について。何人かの友人と話してみたのですが、結婚前とぜんぜん変わらないよ、という人もいましたが(ウラヤマシイ)大半は激減しています。伴侶への気がね(ジェラシー)、古来からの道徳観、他に、家庭のために費やす時間が多い。自由になる時間がズレる。  それぞれうなずける理由です。思い当たります。熟年男女の正しい異性交遊を実現するためには、開かれた社会教育、男女平等な役割分担、育児や介護に対する福祉の充実が望まれます。  恋愛に発展することへの危機回避のため異性交遊を避ける、という答えもありました。意外でした。この「もしかして恋愛に発展するかもしれない危機意識」がドキドキワクワクの素ではないかしら。  世の中、頻繁に発展してしまう人がいる割に、一般にはめったに危機が訪れないのですが、でも可能性がゼロではないというところに一抹のドキドキワクワクのウキウキ時空間というのが存在し、こうして私もその時空間内でお手粧したためている次第です。  又お便りいただけますか? こころ待ちにしております。  二人はペンフレンド ともこ ドキドキワクワクのウキウキ時空間を味わいたい 社会教育「くえすちょん あんど あんさー」7月号  お手紙、ありがとうございます。読んでると楽しくなって、ついニヤニヤしてしまいます。どうして楽しいのか、考えてみました。それは、自分と相手の過去の文化遺産や、外からたまたま与えられた肩書きなどを「見比べあう視線」などとは違う、その人そのものへの関心とそれなりの信頼関係から、この「お手紙ごっこ」が成り立っているからではないでしょうか。こぶとり小父さんやまみさんの手紙もそうだと思います。ぼくは、その心地好さを、交流分析という手法にでてくる「いまここで」(のわたしとあなたに関心をもつ)という言葉で表わせると思います。  いきなり理屈っぽくなってしまいましたが、じつは何を隠そう、ぼくは小さいときから親に「屁理屈ばっかり」といわれ、今でも妻から「銭湯(言う=ユウだけ)」と断言されている人間なのです。でも、社会教育や生涯学習のすてきなところを発信するといういまの仕事はかなり気に入っていまして、そこでは、とくに、「ひとが上下に比べられる学歴偏重社会」を蹴飛ばしたあとの「してあげる=してもらうの交換が気持ちよく行き交う生涯学習社会」のつくり方がぼくにとっての最大重要関心事項なのです。だって、誰だって、「比べられるために生まれてきた」なんていう人はいないと思うのです。また、ぼくが書かせてもらった(出版社に赤字覚悟で出してもらった)本『こ・こ・ろ生涯学習』の副題も「いばりたい人いりません」なのです。だから、このへんの水平な人間交流の話になると、ついリキが入ってしまうのです。  そして、このことは、たしかに「mitoちゃん問題」にも通じているのでしょう。ともこさんからは、「mitoちゃんと呼ばれることは、開かれた社会教育を目指すmitoちゃんの成果そのものではないでしょうか」などと過大な評価をいただきました。ありがとう。まあ、ぼく自身の「mitoちゃん」という呼び名の理由は、正直なところ、語呂がいいからとか、かわいく聞こえるかもしれないからとかの程度です。でも、ぼくには、「わたしの支配を受けないあなただけど、そういうあなたが生きてくれていてうれしい」とたがいに思いあえる「個人に開かれた社会」を社会教育・生涯学習をとおしてつくっていきたいという「野望」(ぼくはこのために生きているのかもしれない……)があります。この野望を率直に反映した直感的な言葉(ほかではぼくは理屈っぽい)が、「ぼくは先生なんかじゃない、mitoちゃんにすぎないんだ」ということなのかもしれません。  ところで、「恋愛に発展することへの危機回避のため(結婚後の)異性交遊を避ける」というご友人の言葉、ぼくもすごいなあと思います。ただし、ぼくの「すごい」は、ぼくもかなりの臆病者なので、「あたってるなあ」、「自分の核心をそんなにずばりと平気でいえちゃう友人関係っていいなあ」という意味での「すごい」なのです。でも、結婚による相互抑圧作用の見返りに安心を求めるよりは、ほかの異性との交遊に心ときめかせながらも、「やっぱりいまの連れ合いが世界一だ」となるほうがよっぽどいいでしょうね。リスクを臆病に回避しているくせに、こんなとんでもない夢を見ているこういう状態を、ぼく自身は「ろくでなし状態」と呼んでいます。しかし、「どうせ人間はみんなろくでなしなんだ。だから、“ただのろくでなし”から“ましなろくでなし”になれれば、それで十分なんだ」と居直ることにしています。  いずれにせよ、ともこさんのいう「一抹のドキドキワクワクのウキウキ時空間」、やっぱりこれが臆病者のぼくにとっても「生きている理由」なんですよね。ぼくは生涯学習は「生きている理由」から発するものだと思っていますから、「ワンダーランドでなければ生涯学習じゃない」なんて叫んでいます。大学の授業でも、初回には必ず「なんで生きてるの?」という発問から始めることにしています。「生まれたから」という当然すぎる答えが一番多いのですが、「死ぬのが恐いから」というのもけっこう多いんですよね。これってぼくは「そうだよなあ」と共感しちゃうところもあるのですが、「恋愛に発展することへの危機回避のため」というのとも通じていますよね。やっぱりぼくはワンダーランドの世界で生きていきたいな。  おっと、いつものごとくスキゾかつ冗長になってしまった。それでは、スキゾついでに、どうしたら社会教育や生涯学習がワンダーランドになるかということだけ、ぼくが最近考えていることを手短かに紹介しておきますね。  1つめは、「発達だけでなく癒しも」です。人間、日々発達しているのを実感するのもうれしいことですが、実際には、それだけじゃなく、「癒されたい、安らぎたい」という欲望もあるのが自然だと思います。前者だけを声高に相手に押しつけるのって「ウソだな」と思うのです。  2つめは、「事実よりも真実を」です。学習というのが、つまらない事実の集積に圧迫されることであるようなマイナスイメージが、小学校以来、ぼくたちにありまして、これがワンダーランドとしての生涯学習への接近を妨げている。ほんとうのところは、事実なんかはおもしろくない。ぼくたちは、事実のインプットのためではなく、真実に少しでもふれてワクワクするためにこそ、出会い、生きているのだ。事実は、その集積が真実に近づくときだけおもしろいのだ。と、このように思うのです。だって、ともこさんだって、ご自分の歌詞を「事実と違うわね」といわれたって「当たり前でしょ」と思うだけでしょうけど、もし、「真実とは無縁ね」などという失礼なやつがいたら、「どうしてよ」となりますよね。歌詞も、人間存在の真実に接近するすばらしい虚構のひとつなのだと思います。  3つめは、「積極的積極性とともに積極的消極性を」です。「誰からでも何からでも学びたい」という積極的な生き方をするひとを見ていると、じつは、撤退せざるをえないような場面の多いこの世の中で、積極性発揮の一方で、他者のせいにすることなく、さわやかな撤退をどこかでじょうずにしている。ぼくはこのような自己決定・自己管理型の「潔い撤退」を「積極的消極性」と呼んでいます。生涯学習や人間交流のような「積極的積極性」の行為は、この「積極的消極性」と連動関係にあると思うのです。この2つに対して、「消極的積極性」(やりたくないけど頑張っている)、「消極的消極性」(被害を受けているからできないでいる)の2つが、ワンダーランド発見のネックになっていると思います(じつはぼく自身のことですが)。  遅ればせながらの自己紹介のようになってしまいました。 ps ともこさんの作品をご紹介ください(作品は“過去の文化遺産!”にあたるけど、「いまここで」のともこさんに関心があるからこそのお願いです)。 mito mitochan in wonderland  またまたノロケられてしまいましたね。イイナ、イイナ。とりあえずお返しするネタがないので、ただただ羨んでいる次第。トホホ……  今回のお手紙、ドキンとさせられることがいろいろあって、ちょっとだけ深く考え込んでしまったりしておりました。  「なんで生きてるの?」まずここでドキン。で、このQに対して咄嗟にAを見出だせずにドキンとしてしまった自分に気がついてドキン。あれ、これって今までさんざん考えてきたことじゃなかったっけ。ある時はルンルンと、又ある時はフンフンと、それなりに自分なりに答えをだしていたつもりだったのに……、そう言えば長いことこんなこと考えていなかったわねえ。流されていただけなのかしら。それとも年のせい??? アッいけない、いけない。ここへ逃げ込んだら老け込んでしまう。そうよ、ウキウキワクワクでなくっちゃあ。  と、まあ最初のドキンから脱出し、気を取り直して読み進みます。  後半、ワンダーランドへの道しるべということで、読むのにもグッとリキが入ってしまいました。  「発達だけでなく癒しも」なんて読むと、そうよ、そうよ、癒されたいのよ。嬉しいこと言ってくれるわねえ。と、それだけですっかり癒された気分になってしまえる私って、きっともうワンダーランドの住人なのね。(オメデタイだけかもしれないけれど)  気持ち良く読みすすんでいると「消極的消極性」なんて言葉に出くわしました。  ガーン。  コレハワタシノコトデハナイカシラン。  以前こぶとり小父さんとのお手紙ごっこで「与えられたどのような状況の中でも常にオメデタくノーテンキに生きてゆきたい」というようなことを書いたことがあるのです。でもこれって状況打破を諦めた態度ではないかしら。いけないことではないかしら。確か昔はこんなじゃなかったはずよ。もっと燃えるような想いが…… でも今だってちょびっと位は……、それにしても……、年のせい??? アッいけない、いけない。  と、ここでも又ちょっとだけ深く考え込んでしまったのでした。  で、いつもの私のクセで、きっと友人達もドキンとするに違いないわと思い立ち、早速ダイアルをピ、ポ、パ。  「もしもし」と聞こえるや、いきなり「ね、ね、何で生きてるの?」  「え? まあ自分自身の修行のためってとこかな。アッハッハッ」  あまりにも即、あっけらかんと答えられて、ポカンとしてしまいました。(彼女は特に信仰を持っている訳ではありません)  ま、ああなりたい、こうなりたいと思いながらも思う程には発達できず、時に癒されたい。真実にふれたくて、ある時は積極的に、又ある時は消極的に生きる。人生それぞれに修行であったり、ワンダーランドであったり、ノーテンキであったり……ウーン、やっぱりノーテンキはまずいんじゃないかな……よく考えてみることにします。  「ありがとう」 なぜ生まれてきたの? 笑うため? 喜ぶため? 愛するため? 神様にありがとうをいうために  これは、かくありたい、あって欲しいという願望です。  mitoちゃん、楽しいお手紙ごっこをありがとう! いつかきっと聴講生 ともこ 山田とも子の作詞した歌(圧縮編) まる・さんかく・しかく ※まる・さんかく・しかく/まる・さんかく・しかく/三つの星があったとさ/宇宙のはてのまだむこう/まだむこう まだむこう//コロコロふとったまんまる人は/まるい机にまるいイス/まるいおへやでとびはねりゃ/まるいおうちがころげだす/トンガリあたまのさんかく人は/さんかく窓のさんかくテント/さんかくベッドでねているが/さんかくまくらがちと困る/(※くりかえし)//オカッパあたまのしかく人は/しかくい坂道しかく山/しかくい車でドライブだけど/しかくいタイヤがまわらない/(※くりかえし) まる・さんかく・しかく/まる・さんかく・しかく/まる・さんかく・しかく/まる・さんかく・しかく/ラララララララ………… 子供のサンバ 手をつなごう花のように/輪になって月を囲もう/楡の木陰の月を囲んで/歌おうよ子供のサンバ//駆けて行こう どこまでも/春の風を追って行こう/麦のかおりに つつまれて/歌おうよ 子供のサンバ ティラノザウルスの子守唄 北京原人 歩いていると/ウサギ ピョンと出て言いました/北京原人 もう春だ/花見に行こう もう春だ//オランウータン 歩いていると/ミミズ にょろにょろ 言いました/オランウータン もう夏だ/泳ぎに行こう もう夏だ//バクがモグモグ 夢食べてると/落葉ハラホロ 言いました/バクさん もう秋だ/焼イモ焼いてよ もう秋だ//ピテカントロプス 歩いていると/カエル ねぼけて 言いました/ピテカントロプス もう冬だ/おやすみなさい もう冬だ//ある朝 ボクの夢の中/北京原人 言いました/息子よ 起きなさい/明るい朝だ 起きなさい 木漏れ日のように 出かけるあてのない日曜日/机の抽出しあけてみた/なつかしい匂いがして/想い出が目をさます/古びたノート/黄ばんだ写真/あいつとの出逢い/ひとつひとつを手にとって/そっともとに戻す//ふり返れば過ぎた日々/木漏れ日のように/きらめいて見えかくれ//誰とも会わない雨の午後/古い手帳を開けてみた/なつかしさめくるたびに/過ぎた日がよみがえる/一人旅の記録/野球のスコア/あいつとの別れ/あの日この日をたどっては/そっともとに戻す//ふり返れば今日の日も/木漏れ日のように/きらめいているだろうか いいじゃないか いいじゃないか 一人で/生きているのさ/どんなに愛しあっていても/一人になりたい時もある//いいじゃないか たまには/旅に出たって/君を愛していることは/神にかけて嘘じゃない//愛していても愛していても/淋しい時もあるのさ/信じていても 信じていても/信じられない時もあるのさ/だから/いいじゃないか 笑っておくれ/いつもみたいに/君もきっといつか気がつく/一人で生きていることに ララララ りんごの木の下で りんごの木の下で/さよなら言いました/まだ青い りんごの実ひとつ/かじってみました/口の中いっぱい/すっぱい汁/にじみました//りんごの木の下で/さよなら言いました/まだ固い りんごの実ひとつ/かじってみました/頭のなかいっぱい/涙じーんと/にじみました//りんごの木の下て/さよなら言いました 青い鞄 青い鞄 ひとつさげて/旅に出たけれど/行くあてもない/帰る家もない/想い出をつめた/青い鞄があるきり//青い鞄ひとつさげて/わたしは船にのる/遠くへ行くの/知らない国へ/悲しみに鍵をかけた/青い鞄があるきり//わたしは旅に出て/夜がやってきて/あなたはひとりで泣いて/世界は終わるの//青い鞄とわたしの旅/いつまで続くだろ/空に浮かぶ/雲の上/歩いて行きたい/ふるさとをみつけるまで ゆがんだ女がおりました ゆがんだ女がおりました/ゆがんだ女がおりました/ゆがんだ女は恋を/いびつな男に恋を/ゆがんだ心で恋をしました//ゆがんだ女がおりました/ゆがんだ女がおりました/ゆがんだ女の恋は/やっぱりゆがんだ恋は/パチンとはじけて散ってゆきました//ゆがんだ女/まんまるな涙 流しながら/ゆがんだ恋のかけら ひろいました わたしはわたし わたしはわたし/走ってみても/さかだちしてみても/やっぱり/世界中に一人しかいない/わたしはわたし//わたしはわたし/あかんべしても/死んだふりしてみても/やっぱり/世界中に一人しかいない/わたしはわたし//わたしはわたし/タワシじゃないよ 山田とも子の作詞した歌 フジテレビ幼児教育番組「ひらけ!ポンキッキ」より 山田とも子作詞/小山田 暁作曲・編曲 まる・さんかく・しかく 唄:のこ いのこ ※まる・さんかく・しかく まる・さんかく・しかく 三つの星があったとさ 宇宙のはてのまだむこう まだむこう まだむこう コロコロふとったまんまる人は まるい机にまるいイス まるいおへやでとびはねりゃ まるいおうちがころげだす トンガリあたまのさんかく人は さんかく窓のさんかくテント さんかくベッドでねているが さんかくまくらがちと困る (※くりかえし) オカッパあたまのしかく人は しかくい坂道しかく山 しかくい車でドライブだけど しかくいタイヤがまわらない (※くりかえし) まる・さんかく・しかく まる・さんかく・しかく まる・さんかく・しかく まる・さんかく・しかく ラララララララ………… 〈演奏時間 3分06秒〉 子供のサンバ 手をつなごう花のように 輪になって月を囲もう 楡の木陰の月を囲んで 歌おうよ子供のサンバ 駆けて行こう どこまでも 春の風を追って行こう 麦のかおりに つつまれて 歌おうよ 子供のサンバ ティラノザウルスの子守唄 北京原人 歩いていると ウサギ ピョンと出て言いました 北京原人 もう春だ 花見に行こう もう春だ オランウータン 歩いていると ミミズ にょろにょろ 言いました オランウータン もう夏だ 泳ぎに行こう もう夏だ バクがモグモグ 夢食べてると 落葉ハラホロ 言いました バクさん もう秋だ 焼イモ焼いてよ もう秋だ ピテカントロプス 歩いていると カエル ねぼけて 言いました ピテカントロプス もう冬だ おやすみなさい もう冬だ ある朝 ボクの夢の中 北京原人 言いました 息子よ 起きなさい 明るい朝だ 起きなさい 木漏れ日のように 出かけるあてのない日曜日 机の抽出しあけてみた なつかしい匂いがして 想い出が目をさます 古びたノート 黄ばんだ写真 あいつとの出逢い ひとつひとつを手にとって そっともとに戻す ふり返れば過ぎた日々 木漏れ日のように きらめいて見えかくれ 誰とも会わない雨の午後 古い手帳を開けてみた なつかしさめくるたびに 過ぎた日がよみがえる 一人旅の記録 野球のスコア あいつとの別れ あの日この日をたどっては そっともとに戻す ふり返れば今日の日も 木漏れ日のように きらめいているだろうか いいじゃないか いいじゃないか 一人で 生きているのさ どんなに愛しあっていても 一人になりたい時もある いいじゃないか たまには 旅に出たって 君を愛していることは 神にかけて嘘じゃない 愛していても愛していても 淋しい時もあるのさ 信じていても 信じていても 信じられない時もあるのさ だから いいじゃないか 笑っておくれ いつもみたいに 君もきっといつか気がつく 一人で生きていることに ララララ りんごの木の下で りんごの木の下で さよなら言いました まだ青い りんごの実ひとつ かじってみました 口の中いっぱい すっぱい汁 にじみました りんごの木の下で さよなら言いました まだ固い りんごの実ひとつ かじってみました 頭のなかいっぱい 涙じーんと にじみました りんごの木の下て さよなら言いました 青い鞄 青い鞄 ひとつさげて 旅に出たけれど 行くあてもない 帰る家もない 想い出をつめた 青い鞄があるきり 青い鞄ひとつさげて わたしは船にのる 遠くへ行くの 知らない国へ 悲しみに鍵をかけた 青い鞄があるきり わたしは旅に出て 夜がやってきて あなたはひとりで泣いて 世界は終わるの 青い鞄とわたしの旅 いつまで続くだろ 空に浮かぶ 雲の上 歩いて行きたい ふるさとをみつけるまで ゆがんだ女がおりました ゆがんだ女がおりました ゆがんだ女がおりました ゆがんだ女は恋を いびつな男に恋を ゆがんだ心で恋をしました ゆがんだ女がおりました ゆがんだ女がおりました ゆがんだ女の恋は やっぱりゆがんだ恋は パチンとはじけて散ってゆきました ゆがんだ女 まんまるな涙 流しながら ゆがんだ恋のかけら ひろいました わたしはわたし わたしはわたし 走ってみても さかだちしてみても やっぱり 世界中に一人しかいない わたしはわたし わたしはわたし あかんべしても 死んだふりしてみても やっぱり 世界中に一人しかいない わたしはわたし わたしはわたし タワシじゃないよ