社会教育の新しい展開からみた学校週五日制  −地域子育てネットワークの形成−                   西村 美東士                   (昭和音楽大学助教授) 1 青少年団体自身が拒否すべき安易な受け皿論  中青連(中央青少年団体連絡協議会)には、青年団、子ども会、ガール・スカウト、ボーイ・スカウト、YMCA、YWCAなど、二二の中央団体が加盟している。社会教育とは、「学校教育法に基き、学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動(体育及びレクリエーションの活動を含む。)をいう」(社会教育法第二条)のであるから、中青連は、青少年に関わる社会教育活動を行う団体の全国的連絡組織であるととらえることができる。  この中青連によって特別研究委員会が設置されている。委員会は、平成元年度に「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」を、二年度に「学校週五日制時代に向けて豊かな人間交流を−時間・空間・仲間を生かす青少年団体活動−」を提言した。  元年度の提言のキーワードは「個の深み」であった。そこでは、個人が集団に埋没することなく、それぞれの方向性をもつ個人として生き、固有の方向に向かって深く踏み入ったり踏み入ろうとしたりして、自らの所属する集団に対しても独自の役割を個性的に発揮することを「個の深み」としてとらえ、「根本的には、集団の存続より個人の存在が、そして個の深みの発揮が大切」と主張した。  これに対応していえば、二年度の提言のキーワードは「ネットワーク」ということになろう。そして、キーコンセプトは「地域の子育てネットワークづくり」であるということができる。学校が週五日制になったからといって、安易に直裁に、既成の青少年団体が請け負い主義的に土曜日の子どもたちの面倒を見ればよいとするのではなく、子どもも大人も地域でともに育つ(共育)ネットワークをつくりだすチャンスとしてとらえなおそうというのである。  もちろん、今日の学校週五日制の動向は、青少年団体が従来から世の中に提案してきたことが社会的に理解されようとしていることの表れともいえるのであるから、団体の中には「いよいよ私たちの出番だ」と意気込む気持ちもある。しかし、特別研究委員会の提言は、そのボランタリズムをさらに一歩進めて、組織や団体といえども、その存在意義はそれぞれの個人のため、「個の深み」の獲得のため、という本質的観点からまとめられたのである。そして、地域子育てネットワークも「個の深み」が発揮できる団体運営や地域活動を実現するためのかなめとして構想されている。  二回の提言とも立教大学坂口順治教授を座長とする委員会によって作成された。そして、私も起草委員長として関わる機会を与えられた。本論では、その議論の中で私が勉強したことをもとに、つたない私見ではあるが、新しい社会教育の観点から学校週五日制時代のあり方を考えてみたい。  私の問題意識の根底にあるものも、多少の重複を恐れずにいえば、土曜日の子どもたちを学校が面倒を見なくなるのならば今度は社会教育(青少年団体)だ、という安易な受け皿論を克服して、人びとがもっと主体的に生きる土曜日を創り出せないだろうか、ということである。  社会教育活動をしている人たちは、暇だから活動しているのではない。多くの現代人と同様に忙しい生活を送りながら、その中で時間をつくって活動している。それなのに、「普通の人たち」が「暇で奇特な人たち」にわが子を任せるようなつもりで青少年団体に依存するとすれば、それは団体にとってもけっして名誉なことではないし、その「普通の人たち」にとっても学校に(もちろん、塾にも)わが子を預けることによって子育ての主体性まで失いつつある今日の状況とたいして変わりない結果しかもたらさないことになってしまうのである。 2 新しい土曜日の個別性  前節で慎重に「私見」と断ったのにはわけがある。委員会で出た議論は十者十様(委員は十人であった)で、意見の一致をみた、とはとても言える状態ではなかったからである。しかし、なぜか快い議論ではあった。それでも起草委員長というポジションの私としては、内心、これで本当に草案をまとめることができるのか、不安に襲われることがあったのも事実だが、そのたびに思い直した。学校週五日制の土曜日は、そもそも多様に展開されるべきなのだ、と。  それぞれの委員の考え方が多様であった理由を私はつぎのように考える。  その理由の一つは、委員が学校、地域、団体のそれぞれの現場を抱えており、その立場から誠実に発言をしたことである。自らの現場を真摯に振り返るほど、一般論には解消できない問題が浮き彫りになってしまった。  二つめは、ネットワークという言葉をとりいれたことである。ネットワークとは何なのか。水平性、自発性、柔軟性、異質の交流、ギブ・アンド・テイク……、ネットワークに対するそれぞれの委員の異なったイメージをたがいに受容しながら、議論を進めていったのである。  三つめは、教育(共育)という概念にあくまでも執着し続けたことである。端的なたとえを挙げるが、週五日制の土曜日に正規の学校教育になるべく近いものをつくりだすだけの結果になるならば、週五日制は不要ということになる。だから、その逆に、教育という概念を最初から捨てて議論すれば、委員の間に共通する方向がもっと簡単に見つかったのかもしれない。  しかし、委員会では、前年度の報告に引き続いて、個人の自己成長をこそ重視した。そして、自己成長を他者や集団が援助する可能性、すなわち本来の教育がもつ可能性、にこだわり続けたのである。ちなみに、そこでの私たちのささやかな結論は「ともに育つ教育」である。しかし、それとて、単純化はできない。たとえば、「ともに育つ」場合の子どもに対する大人の指導性や、文化の伝達者としての役割をどうとらえるべきか、多様な見解が成立するのである。  このようにして委員会の論議は個別で多様な思い入れや主張を柔らかく包み込みながら展開したのだが、それは新しい土曜日のあり方のひとつの特性を示唆しているように思われる。すなわち、学校週五日制に関して、一つには、学校、地域、すでに社会教育活動をしている団体、の三者にそれぞれ独自のとらえ方があり、二つには、従来の二項対立の図式では割り切ることのできないネットワークという概念がどうもポイントになりそうであり、三つには、これまでの教授法の蓄積が有効には機能しない新しい教育活動が行われるようになる(べき)と思われるのである。こういう場合、ひとつのモデルをつくってがむしゃらに押し進めるようなやり方は通用しないだろう。  多様な個性を受けとめてそれに耐えていく力を、週五日制は私たちに要請しているのだと思う。 3 新しい土曜日が求める主体性  人間は自分の判断基準に、つい、シンプルなものを求めたがる。そして、その基準をあまり悩むことなく人やものごとに適用して、レッテルをどんどん貼って処理していけば、生きていくのもラクそうでいいな、と思ってしまう。しかし、その欲求のとおり突き進んでいる人を、「スクエアヘッド」ということができよう。これは、「いわゆる石頭的人物。権威主義的で、物事の白黒をはっきりさせないといらいらするタイプの人間」である。外見上は権威(正確には権力というべきであろう)に忠実に仕えているように見えるが、つきつめて問うてみれば、ヒエラルキーの中で自己の安定を求めているだけのことなのである。  週五日制の土曜日が個性的であるべきだとすれば、それを受け入れる力は、「スクエアヘッド」に対置される「エッグヘッド」に見つけることができる。これは、「一般に知的で、柔軟思考ができ、曖昧さに対する許容度が大きいタイプの人間」である。  また、個別性を受け入れるためには、その集団の風土も問題になる。人間は、他者との関係において、表面的な一致を求めたがる。これは、つきつめて問うてみれば、仲間からいつ足を引っ張られるかわからないのでつねに自分を防衛していなければならないという「防衛的風土」が背景にある。  その逆に、個別な価値を受け入れるためには「防衛的風土」に対置される「支持的風土」が集団の中に求められるのだと思う。「支持的風土」とは、「仲間としては、自信と信頼がみえる。例えば、自分がこの集団に適応しているという自信に満ち、みせかけを装う必要が少なく、感情と葛藤を気楽に示し、仲間に同調しない場合もそれを率直に示すことができるが、メンバーへの肯定的な感情をもっている」という集団風土である。  新しい土曜日が多様に展開されるためには、たぶん、個人がエッグヘッドであることと集団がその個人に対して支持的であることとの両方が必要になるのだろう。  スクエアヘッドの個人や防衛的風土の集団は、統合的なモデルが提示されないかぎり自らは簡単には動き出せない、という呪縛にかかる。自分自身でかける自己催眠のようなものだ。その呪縛から解放されるためには、自分が勝手に妄想してつくりあげた「社会の重圧」や、勝手に行っている自己規制などの、根拠のないさまざまな思い込みや敗北主義に気づかなければならない。当面は、自分自身の思い込みが主要な敵なのである。当人はその思い込みのおかげでいっときの安定を得てきただけに、つまり、自己の錯覚に従属してこれまで生きてきたために、その心の平和を打ち破って自己をありのままに認識することはかなりつらい作業になるかもしれない。しかし、それはしかたがないことだ。  主体とは、認識し行為し評価する我、のことである。だから、その人のそもそもの主体は本人にある。しかし、スクエアヘッドや防衛的風土のように、認識の基準が外から与えられることを望み、仲間への同調や組織への忠誠を示すために行動し、自己評価よりも他者からの評価に依存するようになってしまうのなら、それは形の上の主体でしかない。  現代社会特有の主体性の疎外状況の中で、社会教育は、もっと成人の主体性の獲得に関心を払うべきである。学校週五日制への対応に関しても、社会教育がまっさきに目を向けるべきは親たち、あるいは地域の大人たちに対してでなくてはならない。個別な他者や個別な環境の展開に耐え、それを楽しんでしまう主体性は、子どもにはまだ少しは残っている。それよりも、現代社会でより長く生きてきてしまった(スクエアヘッド)私たち大人にこそ、その欠損が指摘できるのである。  根本的な問題は、制度ではなく、「教育主体」としての私たち親の主体性の欠如だ。考えてみれば、今までだって、親は子どもに対して学校を休ませようと思えば一定の範囲内なら休ませることができたはずだ。ほかの教育的意義を見いだせるプログラムなどがあるのならば、少しぐらい学校を休ませてもよいのだ。そんなことは当り前に行われている国だってある。進度の遅れが気になるのなら、家庭ででもどこででも補習をすればよい。学校に深い教育的意義があると判断して選択的に子どもを学校に行かせているのならよいのだが、「学校で授業が行われている限りには、何が何でも子どもを学校に行かさなければならない」という思い込みだけで学校を休ませないことは、極端にいえば、親の教育権をみずから放棄する行為であるといえる。  実際、登校拒否というSOS信号を出している子どもをむりやり学校に行かせようとすることだけしかしないために、わが子の症状を決定的に悪化させてしまう親たちがたくさんいる。そういう態度は少数の人たちの特殊な態度ではなくて、一般の親たちが日常的にとっている普遍的な態度といえる。人間なら当然にもっているはずの共感する能力や幸福追求のための主体性が、「社会や制度がそうなっているのだから」という不合理な思い込みによって現代社会の中でそがれてしまっているのである。 4 ヒエラルキーへの従属からネットワークの主体へ  委員会は「地域子育てネットワークづくり」を提言した。土曜日の子育てを地域の親たちの共同作業(共働)にしようというのである。既存の団体も、そのネットワークに対してノウハウや情報を提供することができるだろう。また、地域のふつうのお父さん、お母さんから、団体にはなかった新しいセンスを学び取ることができるかもしれない。団体自身もネットワークの中でともに育とうというのである。  私は、ネットワークの特性を自立と依存の統一であると考えている。いわゆる一蓮托生の同志でもなく、かといって孤立でもない。そして、ネットワークにおいては各人が水平に関係を保つ。異種の者も混在する。目的も一人ひとり違う。だから、安定のみを重視する人には耐えられないシステムである。  従来のピラミッド型組織においては、同種の者が集まり、同じ目的や考え方のもとに統合され、露骨にあるいは暗黙のうちにヒエラルキーとそれへの合意がつくりあげられ、これが一定の安定をもたらした。ヒエラルキーの中では、個人は自己の主体性を発揮することよりも、制度の枠組の中での自分のポジションに合わせて生きていくことを心がければよい。ヒエラルキーの中での自己実現の難しさに悶々としている人もいるが、ヒエラルキーに甘んじて従属している人もいる。  学校週五日制が実施されても、それが団体請け負い主義で進められるならば、このヒエラルキーに馴れきった現代人の主体性喪失の片棒を担ぐ結果につながるのではないか。なぜなら、団体請け負いならば、ふつうの親たちは相変わらず教育主体ではないままだからである。「子どもを預ける相手先を選んだのは親自身だ。そこに親の主体性の発現が見られる」という人もいるかもしれないが、主体性とは継続的に獲得していくべき動的な状態をさすのであって、その可能性を自ら断ち切ってしまうことは、極端な表現になるかもしれないが、精神的な自殺といえるのだと思う。  もともと、何のために現在の伴侶と結婚したのか。何のために子をもったのか。伴侶や子どもたちといっしょに暮らしたかったからではなかったのか。そんな当り前のことさえ、いつのまにか忘れてしまっている。家族がいっしょに過ごす時間が少ないことを労働条件の厳しさや住宅難などの外的状況のせいにする人もいるが、その前に、本人が勝手に思い込んで自らがつくりだした枠組(思い込み)に自ら気づくことが先決である。「とにかく学校にはきちんと登校させなければならない」、「とにかく会社の言うとおりに働かなければならない」……。この「とにかく」が、くせものなのである。「とにかく」を捨てて考えてみれば、子どもが学校で成長することができるから学校に行かせるのであろう。発展的企業なら、言われたとおりに働く社員よりも、人間的な豊かさをふくらませる生活を自ら設計・管理できる主体的な社員をこそ求めるはずであろう。  ヒエラルキーを当てがったのは自分ではなくても、ヒエラルキーを内から支えているのは自分なのである。その場合、少なくとも主体的な認識を経た上で、ヒエラルキーの中に自己のスタンスの持ち方を見いだすべきである。いいかえれば、無意識のうちにヒエラルキーを支えてしまうのではなく、自らが主体的に認識した上でヒエラルキーに関与すべきだ、ということである。  やや蛇足にはなるが、私はヒエラルキーを完全に撲滅せよと訴えているのではない。人間の細胞にもネットワーク(リゾーム)的な自立とヒエラルキー(ツリー)的な階層が見いだされることからわかるように、ヒエラルキーにも正機能はあるのだ。たとえば、行政の意思決定システムからヒエラルキーを完全に葬り去ることなど、非現実的であるばかりでなく、万一そんなことが行われたら危険この上ない話でもある。そのほか、帰属意識、自己犠牲の精神などにもメリットは認められる。問題は、これらの逆機能である。逆機能が今日、肥大化して、主体性の疎外状況を生み出しているのである。  既存の青少年団体にも組織としてのヒエラルキーは多かれ少なかれ存在する。たとえば、会長と会員とに分かれている。それに対して、会長を置くな、と言いたいのではない。対等な関係において対話が行われていて、会員が主体的に参加できていれば、それでよい。ただし、ヒエラルキーが社会教育の団体運営のすべてでもない。会長を置かないルーズなネットワークからもそのマインドや魅力を学び、ともに育つことが、今日の青少年団体に強く求められているのである。  また、学校教育の現場にもヒエラルキーが存在する。教員はそのヒエラルキーの中での自分のポジションに安住したり、逆に、敗北感に浸ったりすることなく、そこでのスタンスを主体的に見つけだしてほしい。そして、新しい土曜日には、ヒエラルキーの中の教員としてではなく、子どもの心と教育の技術に詳しい地域住民のひとりとしてのスタンスから参加してほしい。それによって、ヒエラルキーの中にいるだけでは得られない新しい自分らしさ(アイデンティティ)を獲得できればすばらしい。ポジションからスタンスへ、スタンスからアイデンティティへと、教員の主体性の成長が期待できるのである。  私は、週5日制の土曜日には、他の地域から通勤している教員は、勤務校が所在している地域ではなく、自分が住んでいる地域あるいは自分が参加したいと思う種類の活動をしている地域で活動する方が、この制度の本来の趣旨に沿うものだと思っている。  このような地域子育てネットワークづくりによって、学校週五日制は、大人自身の生き方や社会教育のあり方を問い直すきっかけになるだろう。 5 「個の深み」とMAZE(社会教育の新しい展開)  委員会では、大人の都合に合わせるのではなく、子どもの「個の深み」を尊重することを重視した。「個の深み」の代わりに「自主性」などの言葉を使っても理屈は通じるのだが、私は後者が軽い意味で受けとられる現状に批判をもっている。たとえば、「うちの子どもは親が命じなくても自主的にドリルに取り組んでいます」という教育ママの使う「自主性」という言葉はかなりインチキくさい。  本当に求められていることは、指導のもとに管理された個性や自主性ではなく、すでにひとつの主体である子どもの一人ひとりがもとうとしているはずの個別な深みである。それこそがサービスや、ましてや教化という言葉などではなく、教育という人間の内面に関わる営みを表す言葉をわざわざ使う理由でもあると考える。  現代社会の中で、私たち大人の価値観が病んでいる。ヒエラルキーの中での優越、劣等の意識など、その証拠はいくらでも挙げることができる。そんな大人でも、子どもといっしょに時間と空間をわかち合うことによって子どもの「個の深み」と接することができるならば、大人にとっての主体性の回復や獲得の絶好の機会となるだろう。それは、すぐれた教師がふだん行っていることと、まったく同様である。親がわが子だけとそのようにつきあうことにもそれなりの自己成長の契機はあろうが、子ども同士、大人同士、子どもと大人などの関係性の中での対話の迫力にはとうていかなわない。  そして、ここまで述べてきたこと、とくに「個の深み」の獲得の過程は、だれかが上から指導することによって実現するものではない。また、こうすればかならず成功する、という定まったモデルも私には提示できない。できるのは、「個の深み」の阻害状況を問題提起することと、さまざまな局面から活動を改善するアイデアを提案することだけである。  ただ、ひとつ、私が予想するのは、それらの過程がちょうど迷路(MAZE」メイズ)のようになるだろう、ということである。  私は、パソコン通信によるコミュニケーションの特徴をMAZEであると考えている。パソコン通信ではほとんどの記事が数行の簡単な書き込みであり、その内容も最初の発信者のニーズとは必ずしもぴったり合うものではなく(ミスマッチ)、大ざっぱ(アバウト)で、話題がずれたりもどったり(ジグザグ)している。しかもそのやりとりは気軽でイージーだ。それらの頭文字をつなげるとMAZEになる。このMAZEの中で、各自は、最初は気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見する。迷路を自分の力で歩くことによって、「教師なし」で予期せぬ解答を見いだすのである。パソコン通信は、求める情報を能率良く獲得するためには不都合に見えても、創造的な学習にとっては有効なツール(道具)なのである。  地域子育てネットワークで個人の「個の深み」に注目してそれに入り込んでいけば、その個人さえも見通すことのできていない迷路に踏み入ることになるだろう。しかも、他の個人の「個の深み」も重層的にそこに関係をもってくるのであるから、「深みにはまる」といった危険性を感じなくもない。  しかし、考えてみれば、子どもたちは迷路遊びのコーナーがあると目を輝かせて列をつくっている。迷路は、迷えば迷うほど楽しいものなのである。それなのに、私たち大人がMAZEに不安を感じるのは、そういうフリーチャイルド(自由な子ども)としての心を失いつつあるからであろう。見通しがきかないことから逃避してしまう非主体的な敗北主義がしみこんでいるのだ。今の子どもたちにその悪癖を押しつけてはいけない(自由な子ども心を失ったそういう大人のような子どもたちが今は増えつつあるが)。  特別研究委員会の報告では、大人も義務感からではなく、あくまでも楽しく、ということを主張した。また、この報告を受けて中青連主催によるシンポジウムが開かれたが、そこでも、今の子どもは縛りつけられすぎている、大人は「教えなければならない」という義務感が強すぎる、などの指摘があった。迷路をさまようことを子どものように気楽に楽しんでしまう自由な心が、大人のほうにこそ求められているのである。 おわりに  報告では、最後に、時間・空間・仲間(この三つの間をサンマという!)を生かす青少年団体活動への提言として、子どもと大人がともに育つ柔らかい組織運営と柔らかいプログラムを提案している。その内容は、穴埋めではなくネットワークづくりとしての団体外の人材の活用、一斉プログラムからコミュニケーションを重視する小人数プログラムへの転換、子どもであっても自分が社会に役立つという認識を育てるためのボランティア活動の採用、などである。しかし、それからもわかるとおり、報告はマニュアルとして使ってもらおうと考えて作られたものではない。委員会から青少年教育団体や社会教育活動へのメッセージにすぎないのである。  私は一般のマニュアルのメリットは認めるけれども、少なくとも学校週五日制に求められているものはマニュアルではないと考えている。なぜならば、五日制が求めているものは、教育・学習に関わるべき者、つまり教師、親、大人たちが、教育・学習主体としての本来の自己を取り戻すことであり、そのためには、だれもが安心できるひな型が必要なのではなく、ひな型を与えられてから動き出すという今までの自己の非主体的な枠組をみずから乗り越えることがもっとも重要な課題だと思うからである。 1 中央青少年団体連絡協議会発行、一九九一年三月。 2 5 6  拙著『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』、学文社、一九九一年四月。 3 スクエアヘッドとエッグヘッドについては、L・ベラック『山アラシのジレンマ』、小此木啓吾訳、ダイヤモンド社、一九七四年一月、二九頁。 4 防衛的風土と支持的風土については、J・R・ギッブの言葉。ここでは、片岡徳雄『学習と指導』、放送大学テキスト、一九八七年三月、四五頁、から引用。